なるほどな、と思ったことがある。
初めて聖教新聞を目にしたとき、釈然としないというか、モワモワとした灰色の感想を抱いた。
それが何であるか、最近やっと言い表せる言葉を見つけた。

知人と話していて、どういうわけか「学会ってさ、困るよね」という話になった。
その人も近しい間柄に学会員がいて、例に漏れず一通りの迷惑は被ってきたらしい。
そんな中でその人が言ったこと「聖教新聞って凄く良いよって勧められても、専門用語?学会独特?日蓮宗系独特?な言葉がわかりにくくて、とにかくしつこく勧めるくせに、紙面からは外部の人に読んでもらおうとする意志が感じられない」。
そうそう、そうなのだ。
専門用語だけではない。
男子部の会合がどうでどうだったとか、名誉会長が誰に褒められたとか、学会員な俺らチョースゴイ!とか、外部の人間からしたら「それが、何?」としか言いようのないことばかりの新聞を「良いこと書いてあるから」と勧められる。
モワモワとした灰色の感想はすっと「独りよがり」という言葉に変わった瞬間だった。
そう思えば、独自の地区分けだとか名前付けだとか、独自色丸出しの新聞類だとか、嫌がる人の気持ちを汲んでくれないとか、仏敵認定しすぎなとことか、ノルマをこなせば功徳に繋がるとか、とにかく様々なことが「独りよがり」という言葉に繋がってしまう。
いや無論、組織の中の独自色やマイルールはあって当然だろう。
だが学会の場合、その独自色をそのまま外部にも「これ良いでしょ!理解しろ!」とばかりに押しつけてくることが多いのだ。
その一端を体現するのが、やはり新聞啓蒙だと思う。
最初に目につく一面トップを見ただけで、完全にアウト。
外部の人間に「これは良い新聞」と思ってもらえると、心からそう思って勧めているのか疑問である。

わかりやすくする努力をしないで、「なんでわかってくれないんだ!精神後進国日本め!」と騒いでいるのが現在の学会の立ち位置ではあるが(そういう立ち位置だから、端から観察している人間としては面白いわけだが)学会はわかりやすく改善することは出来ないのではないだろうか。
一般社会にわかりやすく迎合しようと改善すれば、組織運営が成り立たなくなるように思う。
組織を維持し幹部や専従職員を養うためには、外部の声を聞く耳を持たせない先鋭化と独りよがりは必要なのでは。
学会の独自色も独自な活動も、学会員の士気と満足感を高めて「生き甲斐」と引き替えに組織のために働いてもらうための要素とするなら、新聞の中身を受け入れられやすい内容に変えることは、学会の独自色を捨てるということと同義である。
「世間の理解」を取るか、「組織の維持」を取るか。
後者を選ばざるをえないとするなら、既に人に広める宗教というより閉ざされた民族、日本社会とは別のルールで動く社会ではないだろうか。

どんはよく「学会はいずれ時代に合う形で軟着陸する」と言うが、私は組織の形態上、難しいのではと思っている。