妻はアンチ、夫はバリバリ。archive

創価学会員の夫と結婚した創価学会アンチの妻の記録。
創価学会なぞ笑い飛ばす気持ちで。すったもんだの後、
夫は緩やかに非活へ。現在は穏やかな日々。夫公認。更新及びコメント受付終了。アーカイブ化。
※学会員との結婚や交際を推奨するものでも、安心材料となるものでもありません。
※しっかり話し合い、答えを見つけるための参考になさっていただければと思います。

華思う故に華あり

とにかく選挙に行こう!2010

tohyo100624


参議院選挙2010、公示になりました。
恒例のキャンペーンも始めました。
投票日は7月11日。
皆様、公職選挙法的にネットでの発言にはお気を付けくださいまし。

選挙権というものを当たり前のように享受し、あるいは放棄さえしている人たちもいるわけですが、それを得るために、先人がどれだけの努力や犠牲を払ったかということにも思いを馳せてみたり。
「どうせ何も変わらない」「誰かがやってくれる」ではなく「自分が変える」くらいの勢いで、投票箱に投票用紙を景気よく突っ込むくらいの気概を見せなきゃ、ご先祖さん達に申し訳がたたねえってなもんで。

もちろん、自分の意志で、決めた候補者・政党で!

Yahoo!みんなの政治
http://senkyo.yahoo.co.jp/

選挙雑感

さて、怒濤の選挙が終わり。
分析なんて出来ないので、時間が流れるうちにいろいろ思ったことや感想を書き連ねてみる。



【注目の尼崎。】
伝聞ではあるが、私が報道ステーションで見かけた「候補者に『尼崎にはアナタみたいな人はいりません』と叫んでいたおばちゃん」のようなことは、まま起こっていたらしい。
一方で「宗教と政治は別」と考えて判断された人々もおられたと聞く。
そういうことはさておいても、「強固な地盤」を突き崩すのは大変だったと思う。
だが、尼崎の全てが創価学会員で締められているわけではない。
強固の地盤の奥底に眠っていた、その地盤に対する不信のマグマが田中康夫さんをきっかけにして、「もうたくさん」とばかりに噴火したのではないだろうか。
敗因が冬柴さんの対立候補者が「有名な人」であったことや、自公連立政権へ向かい風だったことだけではないと思う。
公明党は常々「権力(自民党)を監視し、もの申す立場」を取っている。
が、尼崎では「大きな権力(公明党)に挑戦する候補者」という対立軸にも見えた。
気づけば公明党は「監視する側」から、いっぱしの権力者となり、監視される側に回っていたということではないだろうか。



【公明党。】
公明党の敗因理由は「民主の風」でもなく「自民党が悪い」でもなく、「創価学会」なんじゃないだろうかと思ったりもする。
一部の偏執な信者・迷惑な宗教活動や選挙活動でお馴染み、間違っても「好まれる宗教」とは言えない団体である。
若い世代だけでなく、上の世代でも「折伏大行進」の名残もまだ色濃い。
従って「創価学会が応援するから、投票したくない」という人たちも多い。
公明党としては今回の危機にあたり、組織票以外の無党派層の票を取り込みたかったとは思うが、どんなに好感度アップのイメージ戦略に励んだところで「だって創価学会じゃん」と言われて終わってしまう。

取り込めないなら従来通り組織票が頼みになる。
が、得票数が頭打ちだとも聞く。
投票率が上がったことで、分かりやすく負けてしまった。
票田をバックにした「選挙協力」という強味は今回の選挙で崩壊してしまったんではないだろうか。
創価学会頼みにならざるをえない公明党は、党としての基礎体力が強いようで実は弱いのではと思うのだ。

政策の質で勝負してきたという自負があるなら、組織票頼りにならなくても勝てるはずだ。
太田代表は「政策が浸透しなかった」と敗因を述べておられたけれど、その浸透を邪魔していたのは「 あ の 創価学会が支持団体」というネガティブなイメージに尽きると思う。

どんは、党を解散すればいいと言う。
爆弾発言である。
学会員だから公明党から立候補する、学会員だから公明党を応援する、そういう風潮自体がそもそも不自然なわけで。
なので、学会員が徒党を組んで政治をするよりも、例えば「浄土真宗の自民党議員」「クリスチャンの民主党議員」のような、宗教は一個人の価値観・理念として、それぞれの政治思想に添う政党に入党して議員になれば良いのではという考えである。
(どのみち「あの候補者、学会員だから嫌」とは言われるだろうが)
そうなれば末端の学会員も、自分の思う通りの候補者に入れやすくなる。

ただ、「学会員だから公明党を応援する」図式が残れば、地元の学会員は応援するだろうし、各党「学会員の候補者の取り合い」になるかもしれない。
だが、政党として存在している時ほど組織票が強固に続くとは思えず、むしろ個人行動を取りやすくなったことで票が分散するように思う。
「そんな風に世の中に溶け込んでいくのが一番いいんだよ」と、どんは遠い目で呟いている。
哀愁である。
私には関係ないが。



【落選した人。】
個人的に片山さつきさんが好きなので当選してほしかったのだが、彼女が落選したのはちょっとがっかりした。
が、当選されたのは城内実さん。
地道にやっておられたと聞くので、結果として報われたんではないだろうか。
静岡7区では民主党候補者は小選挙区では敗れており(比例ブロックで当選している)、ここは「民主の風」は吹いたとは言えないように思う。

山崎拓さんが落選して良かったなー、などと思いつつ、でも森喜朗さんは当選してて、なんだかなー、と思いつつ。



【噂のあいつ。】
幸福の科学の皆さまが立党された、幸福実現党。
議席は確保しなかったものの、都市部を中心に票は獲得している。
布教地域が都市部らしい。
この党が提案している「新・日本国憲法」を読んだことがある。
もの凄く乱暴にまとめると、政教分離くそ食らえ!俺の言うことを聞け!ということらしい。
それを読む私の頭の中ではT-REXの20th Century Boyが流れていた。
む、これも神の啓示かw
個人的見解ではあるが、面白さ度に関しては創価学会は幸福の科学に負ける。



【自民党。】
これで自民と公明の縁が切れた。
歴史と実績がある自民党。
立て直して、単独で民主党と戦える政党になって欲しい。
なんだかんだ言っても、両党の切磋琢磨で日本を良くしていって欲しいと思うのだ。
「さよなら公明党、がんばれ自民党」
いろいろ書いたけれど、私の感想はこの一言につきる。



アメリカに「CHENGE」を掲げた新しい大統領が誕生したことも、影響したんではないだろうか。
「何かが変わるかもしれない」という期待が生まれたのだと思う。
そして現実に民衆の力で「変えられた」。
政権が変わっただけではない。
「選挙?興味ねーし」などとほざいた人にとって、「どうせ政治家なんて」と望みを託すことを辞めた人にとって、「どうせ何も変わらないでしょ?」と世の中を斜めに見て勝手に憂いた人にとって、「選挙で政治に参加する意識」が大きく変わった選挙だったのではないだろうか。
この関心の高さが、この投票率が、以後も続けばいいなと私は思う。

選挙に行きましたか?2009

取り急ぎ。

現行法では過去最高の投票率だったそうです。
これをきっかけに、以後も投票しに行く人が増えることを期待します。

それにしても。
凄いことが起こるものですね。
http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/hyogo/8.html
http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/tokyo/12.html
http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/osaka/16.html

拮抗しており大差がついているわけではありません。
厳しい選挙戦だったと思います。
それでも投票率の高さが組織票を押さえつけることができるという事を目に見える結果で見ることが出来ました。
……学会員自身が今回、公明党に投票しなかったという可能性もあるでしょうが。

また時間が出来た時に個人的な感想など記事更新します。

とにかく選挙に行こう!2009

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このブログの読者で選挙権をお持ちの方は行かれることと思います。
が、私達の周り。
意外にいるんですね「選挙に行かない人」。

「選挙?興味ねーし」などとほざく人もいるでしょう。
「どうせ政治家なんて」と望みを託すことを辞めた人もいるでしょう。
「どうせ何も変わらないでしょ?」と世の中を斜めに見て勝手に憂う人もいるでしょう。
投票に行こうと決めれば、誰に入れようと考えるようになり、興味が生まれる。
政治に文句を言うのも、世の中を憂うのも、諦めるのも、とりあえず投票行ってこい、とにかく話はそれからだ!

と、啖呵を切ってみます。ブログ上で。
実際はもっと優しく言ってます。たぶん。

とはいえ今回の衆院選は関心が高く投票率もそれなりだとは思います。
組織票、政権交代、いろいろあります。
が、いつの選挙でも変わらず大事なのは、注目されている選挙だからというわけではなく、誰かに頼まれたからでもなく、上から言われたわけでもなく、ノルマでもなく、「自発的」に、「関心」を持って、「自身の意志」を、政治に反映させる行為ではないでしょうか。
面倒だと言う人もいます。
選挙カーは確かに五月蠅いです。
が、選挙権には「選べる幸せ」があるのではないだろうかと思うのです。


暑い日が続きます。
お気をつけてお過ごしください。
最後になりましたが、地震に台風、被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。

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お知らせ(09.8.12)
http://support.drecom.co.jp/blog/archive/238
ブログ運営側の不具合につき、8/10のクーさん以降のねまさん、私、ぽんきちさん、うさ子さんのコメントが消えています。
私はテキストデータに残していたので、再度コメントを書きました。
他の方でもしもデータに残しておられたら、お手数をおかけしますが再度のコメントをお願いいたします。

感想など(5/20 追記)

■ハインリヒ・ハラー著「セブン・イヤーズ・イン・チベット」[角川文庫ソフィア]
映画の鑑賞経験の有無に関わらず、書籍で読んだほうが良いと思った。
当然のことながら著者の見聞が細かく、かつ叙情的に描かれている。
読んで頂きたいので、詳しくは触れないが、書籍を読むことで中国政府の「チベットにおける農奴解放」は建て前でしかないことがよく分かる。
確かに当時のチベットは平和な理想郷であるとは言い難い。
だが、下々の民が苦しめられるような独裁国家とも言えない。
無論、著者は権力を持つ人々と親交があるが、だからといって彼らをかばう記述があるとは思えなかった。
この短い記事の中でそれをどう伝えるかは難しいが、一点取り上げるとすると「風刺劇の文化」があったことだ。
風刺の対象は寺院の制度まで茶化し、それを見た当の僧侶も大笑いをするほどだったようだ。
言うまでもなく、当時のチベットでの僧侶は権力者に当たる。
これを風刺できるという気風は、言論統制の敷かれた独裁国家ではありえないということは、分かって頂けると思う。
この劇は祭りの際にダライ・ラマ法王の前でも上演されている。

おそらくは、あのままチベットが国家として存続していれば、自分たちの力で緩やかに国を発展させ、問題を解消し、近代化へとシフトしていくだろうと思えた。
特殊な地理で取り残されていた故に歩みは遅かったのだろうが、過渡期を経ての国家としての成熟するというどこの国にもあるプロセスが、中国によって奪われてしまったというのが残念でならない。

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■ドキュメンタリー映画「ヒマラヤを越える子供たち」
http://www.tsg-kiku.com/
http://www.tsg-kiku.com/eoth/index.html

胸を締め付けられるような思い、「やるせない」とはこういうことだろう。
ヒマラヤを越える、あるキャラバンに密着したドキュメンタリー。
キャラバンの目的は子ども達をインドのダライ・ラマ法王の元に送り届けること。
自分の甥っ子達とそう変わらない年齢の子ども達が、チベットの言葉と文化を学ぶためにヒマラヤを越える。
チベットには学校がないわけではないが、学費が高いという。
DVDではこれは中国政府のチベット人の抵抗を防ぐための政策だと紹介されている。
文化や言語が絶たれることを危惧したダライ・ラマ法王とその妹(映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」で法王の母親役でも出演されている)は、亡命政府のあるインドのダラムサラに教育機関を設立した。
そこに行かせるために、子ども達と生き別れ覚悟で親達はヒマラヤを越えさせるのだ。
教育を受けさせなければ普通の生活が送れないと、ある母親の言葉が紹介されている。
「セブン・イヤーズ・イン・チベット」でもチベット人は貧富関係なく子ども達には別段の愛情をかけると記述があった。
愛する我が子の将来に光が射すことに一縷の望みを賭けて、身を切られる思いで親は子ども達を送り出す。
生きてダラムサラに辿り着けない子ども達もいる。
生きて辿り着いても、凍傷で手足を失う子ども達もいる。
本来、親元で守られすくすくと育つ時期なはずなのに。
最近、生きるために少年兵になったアフリカの青年の手記を読んだが、その読後にもやるせない思いに支配された。
時代がいつでも、場所がどこでも、犠牲になるのは子ども達だ。

登山に万全とは言えない装備。
スニーカー(!)でヒマラヤを越える少女。
中国製であろうジャンパーの胸元にはまがい物のドラえもんの刺繍は、何かを象徴しているようにさえ思える。
長い旅路の果て、子ども達の中で最年長の少年僧が言う。
「僕の国を侵略した中国人に怒りを感じます。でも怒りは春の雨のようにすぐ消えます。同じ人間だということを思い出すと同情を覚えるのです」

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今は「囚われのチベットの少女」という本を読んでいる。
読み終わったら追記しようと思っている。

どんは、このチベット問題に関心を寄せていて、心を痛め、そして怒りを持っている。
自分の所属している団体の意向や構成員としての建て前に捕らわれることなく、人間として抱いた当たり前の感情を素直に表す夫で良かったと、心から思う。
「やるせない」を辞書で引くと「悲しみなどの気持を晴らす手段がない。気持が晴れないでつらい。」とある。
非力な私には、他国の惨状を見聞きしたところで、その気持ちを平和のために使う術というものがない。
せいぜい寄付をして、継続して注視し、ブログで取り上げる以外は、自分たちの手の届かない上のほうで刻々と変化する世界情勢をじっと見ることしか出来ないのだ。
だからといって、外側の世界に関心を持たないほうがマシだと言うことではない。
これを一過性の偽善で自己満足だと言われてしまうかもしれないが、それはそれで構わない。
偽善と言われるよりも、この問題を無視をするほうが私には耐え難いことなのだ。
「やるせなさ」を伝えたいと思うのも、何かしたいと思うのも、人間の自然な行動ではないだろうか。
私が仏教の一派(一応)の信者の夫を持ったことも、ブログを始めたのも、ダライ・ラマ法王の説法会に「行ったほうが良いかな」と思って行ってしまったことも、何かの縁だとするならば、「やるせなさ」を伝える、苦しむ人のために何かをする発露としてブログを利用しても良いのではないかと思う。
誰かのためになっているか分からないが、誰かのためになっていることを信じている。

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5/20 追記
■「囚われのチベットの少女」
フィリップ・ブルサール/ダニエル・ラン 著 今枝由郎 訳
http://www.transview.co.jp/06/top.htm
http://www.tibethouse.jp/human_rights/nsandol.html

チベット人の尼僧ガワン・サンドルの抵抗の半生のドキュメンタリー。
出版当初はまだ監獄にいたため、彼女と関わりのあった人々のインタビューを元にまとめられている。
9歳でデモ参加、最初の逮捕。11歳で二度目の逮捕、一年間の監獄収容。13歳で再度逮捕、以後2002年に釈放されるまでの10年間を監獄で過ごし、その間も抵抗運動を続けている。
彼女は犯罪者ではない。
幼いながらも信念に基づきデモに参加し「自由チベット万歳」と叫んだだけでこの処遇である。
人権などどこにもない。子供にも容赦しない。酷いとしか言いようがない。
驚くべきことに、ガワン・サンドルは私とはそう年が変わらない。
故に、拷問にも決して屈しない彼女の精神力は余計に驚異的に映った。
その精神力の根源は信仰心である。
たくさんの方に読んで頂きたいとこの書籍を取り上げるのだが、信仰をお持ちの方、そして学会員の方にお勧めしたい。
私にとっては皮肉な話だが、読後、この書籍を学会員が読めばおそらくは私以上に共感を抱かれるだろうと思ったのだ。
このブログを読んでくださる方々の中には、内容を好まず単にアンチの動向を窺うために読んでいる学会員の方々もおられるだろうから、そういう方々に是非「自分の身を彼女に置き換えて」読んで欲しい。
チベットのことについて、アンチの私が言えば「またアンチが何か言っている」で流されてしまうだろうけれど、信仰者としての彼女の起こした行動を綴った物語ならば、チベットが置かれた状況は切実にあなたの心に届くだろう。

ネットで検索していると、近年の彼女の写真を見つけることができる。
私とそう年が変わらないはずなのに、私よりも遙かに年上に見えた。
それだけで彼女の身の上に起きた悲惨な出来事を想像することが出来る。
生きて監獄を出られなかった方々も多く居る。今現在も、監獄の中に囚われたままの政治犯も居る。
クックさんからコメント欄でご紹介いただいたページをここに転載する。
http://www.tibethouse.jp/human_rights/index.html
何が起こったか想像できる、だが、その想像を上回る悲惨な現実があるということだ。

中国四川省で大きな地震が起こった。
心が痛む出来事であり、弔意と共にミャンマーのサイクロン被害と併せて寄付をさせていただいた。
四川省といえば元々チベットの一部が含まれており、チベット民族も多く住む土地である。
初動対応の遅れからか、被害が深刻化していることも気がかりであるし、非常時で情報が混在しているせいか、チベット民族の動向が聞こえてこないのも気がかりである。
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