先月のことだったか、木根尚登さんの体験記事が聖教新聞に掲載された。
そういうこともあるだろう。
それに馴れて受け流してこそのFANKS(懐)である。
だが、TMN解散以後の苦難の時代を信心で乗り越えられたというくだりは少し寂しかった。
その苦難の時代でもずっと応援し、苦難を越えて長く音楽を続けてくださることを嬉しいと思うファンはたくさんいるのだ。
創価の中にも外にも、そして微力ながらこの私も。
聖教新聞なので「信心云々」が前面に出るのは仕方がないと思う。けれど少しくらいは、ファンのことに触れて欲しかった。

記事は聖教新聞側が都合良く記事をまとめてしまったもので木根さんはちゃんとファンのことにも触れてくれていたと、あるいは聖教新聞向けだからそういう記事になっただけだと、真実がそうだったらFANKS(懐)としては嬉しいのだが。
信心という目に見えない支えがあるとするなら、ファン一人一人の音楽への思いに満ちた大きな力も存在しているはずで、だからといって見返りを求めているわけじゃなくて、「信心のおかげ」なら活動しろとかノルマこなせとか言うわけないし、ただ「いつもありがとう」という言葉と、新たな素敵な音楽があればそれでよくて、とにかく。
そういうことは聖教新聞の中の人々には分からないかもしれない。
けれど信心だけじゃなくて「木根さんとFANKS(懐)にしか分からないことだってあるんだぞ」と思うのだ。

芸能人やスポーツ選手など多数のファンがつく存在が、体験発表の記事に出て「信心(先生)のおかげ」と語ることに、抵抗感を感じてしまう。
聖教新聞は成果を取り上げるが、ファンは過程も大事にして応援している。
コンサートに行くCDを買う、試合を見に行く声援を送る、手紙を書く、売れようが売れまいが、怪我をしようが不遇だろうが、具体的にも精神的にも応援し続ける。
何にせよ、本人が何を信仰しているかなんてことは言わば「プライベート」。
ファンは別に知りたいことではないし、知らなくて良いことだし、記事がきっかけで入会が増えるのを目当てにしているのかもしれないってそんな簡単に出来てはいないし。

勿論、信心を支えにされることは否定しない。
けれど聖教新聞の体験記事は、支えてきた人たちからひょいっと奪って、創価的身内だけで「この信心すごいねー!」と盛り上がっているようなものではないかと思ってしまう。