作家、原田宗典氏の著書に「おまえは世界の王様か!」という本がある。
早稲田大学在学中の20歳の頃の読書の感想を書き留めたカードが実家から発見された事で始まったエッセイだ(「ダ・ヴィンチ」に連載されていた)。
若さ故の思い上がり(?)青臭い理想(?)は誰しも覚えがあるだろう。
20歳の文学青年だった原田氏も間違いなくその一人だったそうで、原田青年の読書感想カードは国内外の名だたる文豪がなんぼのもんじゃいとばかりに、時に斬り、時に脱帽し、時に偉そうに評価しながら、文学への熱い思いが読書カードに書き綴られており、エッセイでは、そのカードを読み返した大人の原田氏が「おまえは世界の王様か!」的な内容に卒倒しながらも、今だから分かる原田青年の心情を回顧していらっしゃる(若き自分へのフォローとも言うかも…)。
私にも覚えがある。
このブログの初期のほうは恥ずかしくて恥ずかしくて読めたものではない。
さらに20歳の私に日記を書く癖は無かったが、10代半ばから手紙をよく書いていた。
出来ればその手紙、回収して回りたい…。
こないだなんて幼なじみがクスリと笑いながら「こないだ華ちゃんからもらった手紙が出てきてさぁ、その内容が」とまぁそんな話はどうでもいいとして。
さて、私の手元にあるのはご存知、「聖教新聞」。
数々の名物コーナーを抱える日本でもっともナウでヤングな新聞だ(嫌味)。
読んだことのある方は、お気づきだろう。
この新聞の「立ち位置の高さ」を。
末端の学会員や公明党議員はもちろん、社会や、敵対団体や、学会を良く思わない人々や、政治や、退転者、果ては日本という国に対して、高い立ち位置からの目線で文章が書かれている。
チョモランマからマリアナ海溝の海底を見下ろすような距離感。
「この信仰をしている自分たちは正しい」と思うのは自由ではある。
それを他者に押しつけ、紙面上で罵らなければ、だ。
問題は「決して他者の異なる価値観を認めない」ことである。
新聞と名の付くものに、価値観の異なる他者を見下すような内容や、選民意識丸出しの内容の記事が掲載される。
当の学会員自身にも嫌悪感を抱かせ、啓蒙を躊躇させるような内容もある。
それを指摘されれば「自分たちは正しいのだから、間違っている奴の悪口は言って良いのだ!」と開き直る。
あまりにも偉そうなそれらを(ネタ探しに)読んで私は思うのだ。
「アンタらは世界の王様か!!!」(←斜めの「!」)
無論、これらは前述の「若さ故」のものではないから、たちが悪い。
学会はもう77歳なのだ。
そもそもこの新聞を学会内外に売り歩く「商品」として、この論調を展開していることが吃驚だ。
こんな上から目線の度が過ぎる新聞を、さらにお金を出して買えというのはあまりに理不尽過ぎる要求だと思う。
だからこそ学会員が、無理矢理にでも売りつけなければならないわけで、物流の世界で商品として販売して売り上げを上げられるシロモノではない。
彼らは書店に置いて売ってある週刊誌を「デマ雑誌」と簡単に言うけれど、確かにデマのような飛ばし記事や誤報もある一方、社会の闇に切り込み巨悪を暴く記事もある。
大本営発表で大作マンセーで、学会の都合の良い「事実」ばかりで、論調が徹底して揃っている聖教新聞のほうが「ジャーナリズム」とはほど遠く、広めるに値しない、商品にも値しないものだと思うのだが。
そんな池田大作ファンクラブ会報のようなものなど、ノルマでも課せなければ売れるはずもなく、そのノルマに追われてこんな内容のものを外部の人間に「スバラシイ新聞だから」と売って歩き、マイ聖教として一家に一紙ではなく一人一紙持たされることまで受け入れるなんて、どんだけマゾやねん!とツッコミを入れたくなる。
さらにこんな「言いたい放題」なものを売りつけて購読料で儲ける学会の厚顔ぶりには笑うしかない。
さすがは(裸の)王様!いよ!宇宙一!
それにしても「精神後進国天狗日本(by聖教新聞)」に「言論の自由」と「思想信条の自由」があって、本当に良かった。
自分たちが住むこの国を見下す自由すら、この国は保障している。
様々な宗教がおおらかに許容し混在するこの国だからこそ学会は成り立っているにも関わらず、世界の王様はチョモランマの頂からマリアナ海溝の海底に向かって「お前ら間違ってんだ!」と今日も元気に叫んでいる。
後年、それらを読み返して「うわー!恥ずかしい!こんなこと書いちゃってる!」とあまりの王様ぶりに卒倒することは、あるのだろうか。
早稲田大学在学中の20歳の頃の読書の感想を書き留めたカードが実家から発見された事で始まったエッセイだ(「ダ・ヴィンチ」に連載されていた)。
若さ故の思い上がり(?)青臭い理想(?)は誰しも覚えがあるだろう。
20歳の文学青年だった原田氏も間違いなくその一人だったそうで、原田青年の読書感想カードは国内外の名だたる文豪がなんぼのもんじゃいとばかりに、時に斬り、時に脱帽し、時に偉そうに評価しながら、文学への熱い思いが読書カードに書き綴られており、エッセイでは、そのカードを読み返した大人の原田氏が「おまえは世界の王様か!」的な内容に卒倒しながらも、今だから分かる原田青年の心情を回顧していらっしゃる(若き自分へのフォローとも言うかも…)。
私にも覚えがある。
このブログの初期のほうは恥ずかしくて恥ずかしくて読めたものではない。
さらに20歳の私に日記を書く癖は無かったが、10代半ばから手紙をよく書いていた。
出来ればその手紙、回収して回りたい…。
こないだなんて幼なじみがクスリと笑いながら「こないだ華ちゃんからもらった手紙が出てきてさぁ、その内容が」とまぁそんな話はどうでもいいとして。
さて、私の手元にあるのはご存知、「聖教新聞」。
数々の名物コーナーを抱える日本でもっともナウでヤングな新聞だ(嫌味)。
読んだことのある方は、お気づきだろう。
この新聞の「立ち位置の高さ」を。
末端の学会員や公明党議員はもちろん、社会や、敵対団体や、学会を良く思わない人々や、政治や、退転者、果ては日本という国に対して、高い立ち位置からの目線で文章が書かれている。
チョモランマからマリアナ海溝の海底を見下ろすような距離感。
「この信仰をしている自分たちは正しい」と思うのは自由ではある。
それを他者に押しつけ、紙面上で罵らなければ、だ。
問題は「決して他者の異なる価値観を認めない」ことである。
新聞と名の付くものに、価値観の異なる他者を見下すような内容や、選民意識丸出しの内容の記事が掲載される。
当の学会員自身にも嫌悪感を抱かせ、啓蒙を躊躇させるような内容もある。
それを指摘されれば「自分たちは正しいのだから、間違っている奴の悪口は言って良いのだ!」と開き直る。
あまりにも偉そうなそれらを(ネタ探しに)読んで私は思うのだ。
「アンタらは世界の王様か!!!」(←斜めの「!」)
無論、これらは前述の「若さ故」のものではないから、たちが悪い。
学会はもう77歳なのだ。
そもそもこの新聞を学会内外に売り歩く「商品」として、この論調を展開していることが吃驚だ。
こんな上から目線の度が過ぎる新聞を、さらにお金を出して買えというのはあまりに理不尽過ぎる要求だと思う。
だからこそ学会員が、無理矢理にでも売りつけなければならないわけで、物流の世界で商品として販売して売り上げを上げられるシロモノではない。
彼らは書店に置いて売ってある週刊誌を「デマ雑誌」と簡単に言うけれど、確かにデマのような飛ばし記事や誤報もある一方、社会の闇に切り込み巨悪を暴く記事もある。
大本営発表で大作マンセーで、学会の都合の良い「事実」ばかりで、論調が徹底して揃っている聖教新聞のほうが「ジャーナリズム」とはほど遠く、広めるに値しない、商品にも値しないものだと思うのだが。
そんな池田大作ファンクラブ会報のようなものなど、ノルマでも課せなければ売れるはずもなく、そのノルマに追われてこんな内容のものを外部の人間に「スバラシイ新聞だから」と売って歩き、マイ聖教として一家に一紙ではなく一人一紙持たされることまで受け入れるなんて、どんだけマゾやねん!とツッコミを入れたくなる。
さらにこんな「言いたい放題」なものを売りつけて購読料で儲ける学会の厚顔ぶりには笑うしかない。
さすがは(裸の)王様!いよ!宇宙一!
それにしても「精神後進国天狗日本(by聖教新聞)」に「言論の自由」と「思想信条の自由」があって、本当に良かった。
自分たちが住むこの国を見下す自由すら、この国は保障している。
様々な宗教がおおらかに許容し混在するこの国だからこそ学会は成り立っているにも関わらず、世界の王様はチョモランマの頂からマリアナ海溝の海底に向かって「お前ら間違ってんだ!」と今日も元気に叫んでいる。
後年、それらを読み返して「うわー!恥ずかしい!こんなこと書いちゃってる!」とあまりの王様ぶりに卒倒することは、あるのだろうか。