仕事上の付き合いのある知人と食事をしていた時のことだ。
話題は「エステの勧誘」について転がっていった。
会員制エステで、社員ではない会員が友人知人を勧誘するエステがあり、私も独身時代に過去に二度、それぞれ別の友人から誘いの電話をもらったことがある。
エステに行くのはその人個人の楽しみや「綺麗になりたい」願望を叶えるわけあって、それ自体は何も思わない。
ただ、私はさほど興味は無かったし(金銭的にも余裕はないし)その経営側の営業の仕方「友人という繋がりを利用した勧誘」も快く感じられず、そのどちらも丁重にお断りした。
口コミで希少価値を高めて、かつ会員を使って無料で宣伝したいのかもしれないが、技術に自信があるのなら、広告をきちんと打って売ればいいのだ!(そしたら広告業界が潤うじゃないか!←オイ!)
電話口で「あなたが楽しむのは自由。でも会員であるあなたが勧誘電話をかけるのは違うんじゃないの?」と諭したような覚えがある。
お金を払ってサービスを受けるはずの客が、何故か営業活動を積極的にしているという状況は、私にしてみれば奇異なものだった。
「紹介すれば割引がある」という利点があるのかもしれないが、それぞれ大人しく内気だった友人が勧誘電話をかけてくるということ自体も驚きだった。
「割引でもあるのかな?一人お誘いすることに何円引きとか。エステって施術してもらうとリラックスして気が緩むし、良いこといろいろ言われてその気になるのかもしれませんね。そういえば、エステのショップから直に携帯で電話かけてるらしくて、電話の向こうから他の人の勧誘の声が聞こえてきたんですよね。組織的にさせてるんでしょうね、ああいうのきっと」
私が何の気なしに繋げた一言に反応して、知人が予想だにしない言葉を言った。
「ああいうのはね、聖教新聞みたいなもんですよ
目の前の麻婆豆腐の辛さ以上に予想外な言葉を聞いた後、どう反応すべきか数秒考え、「ああ、なるほどね。宗教みたいなもんでしょうね」と答えておいた。
知人がその単語を口にしたのは、聖教新聞の新聞啓蒙がどういうものか知っているからに他ならない。
しつこく薦められた経験があるのか、学会員の友人がいるのか、もしかしたら学会家庭に生まれて見たくもない内幕を見てきた人かもしれない。
その後も取り留めなく話は続き、その話題が出ることはなかったが。
ああ、びっくりしたなあ、もう。
家庭外で学会の話が出ると、相当吃驚してしまう。
相手は何の気もないのだろうが、必要以上に反応し「私は関係ないんですよ」をアピールしたくてした話が余計に怪しさを増し、どうにもならなくなったことがある経験から、「さらりと聞き流す」技術をようやく取得しつつあるわけだが、やはり吃驚してしまうのだ。
(二世三世でも、伴侶や恋人が学会員でも、日常的に学会のある生活をしている人には分かって頂けると思う、この動揺)
話を戻す。
知人がエステの会員による勧誘のことを「聖教新聞のよう」と例えたのは、ある意味絶妙だとも思った。
むしろ「聖教新聞のよう」だけではなく「学会のよう」という意味もあったのかもしれない。
ノルマがあったのかどうかまでは定かではない。
ただ「何人集めれば何円割引」という利点があるならば、それは利点という名のノルマにもなる。
今なら分かるが「宣伝費をかけずに宣伝する」ために「会員自身に勧誘させる」システムは、非常に「創価学会的」である。
もちろん、勧誘の電話の会話には「芸能人の●◎も通ってて」という常套句があった。
某教団も見本にしたと言われる学会のシステム。
エステの勧誘にも応用できるし、ネットワークビジネスにも応用できる。
実際にどんの学会の友人で、ネットワークビジネスにはまった人は「学会に似ている」と言っていたそうだ。
学会の応用ではなく逆に、多くの人間を動かす手法の、最も成功した例が創価学会と言えるかもしれない。
体質が今の時代の人間の特性にそぐわなくなっているのと末端に過剰な無理を強いる点が仇となり、学会は既に綻びつつあるけれど、「信心のおかげで良いことが」を「金銭」や「綺麗になる」などの唯物的な物に変われば、得る利は分かりやすくなるから、この手法自体はこの先も途絶えることはないだろうと思う。


GWの帰省の際に、兄弟と世間話をしていた。
両親兄弟は私の夫が学会員であるということを、当然知っている。
話題は学会のことに及んだ。
「中学時代の同級生の■▲さんが急に家に訪ねてきて」
家と言っても、実家ではない。
既に家庭を持ち、実家とは違う町で暮らしているのだ。
他の同級生に聞くなりしたのだろう。住所を調べて、訪ねてきたのだという。
当然、用件は「久しぶり!公明党の候補者に投票してハート」。
■▲さんは、私の後輩でもある。
確かに、■▲さんの家には公明党のポスターが貼ってあった覚えはあるが、■▲さん個人に関しては思い返しても、学会色なるものは出していなかったように思う(私が知らないだけかもれないが)。
しかし、どうやら時を経て、疎遠になった同級生の現在住所を調べてやってきて投票依頼を出来るほどのツラの皮の厚い立派な活動家になってしまったらしい。
「ハイハイって聞いておいたけど、投票はしなかったよ」
学会員の伴侶を選んだ自己責任として生活の中にある学会に関する迷惑な点を、多く身内に語った覚えはないのだが、温厚で人の良い義兄の唯一の困りものの点が学会であることを、姉の背中に滲む哀愁から感じ取ってくれたのだろうか。
そういえば「ハイハイと聞いておくけど、投票はしない」のは母が選挙時によく使う「円滑な人付き合いのための処世術」なので、これは世襲すべき我が実家の伝統なのか。
それにしても「現在住所」を探し当てられるのは、個人情報云々以前に、そもそも良い気持ちはしない。
当然、教えたほうにも問題はあるが、そうまでして突然訪ねて、相手がどう思うかなど考えるほどの想像力は欠如してしまったのだろう。
いや、学会によって奪われたと表現するべきか。


さて、ここまで二つの話題をダラダラと書き連ねてきたわけだが。
この二つの出来事は、「新聞」と「選挙」が、一般の人が創価学会を体験するその最たる物だということを表している。
そしてそれに「折伏」が続き、その後はおそらく「葬式」だろう。
私は、それらの全てにまつわるエピソードを、学会員ではない一般の人から聞かされた。
「ノルマがあるみたいで気の毒になって」「しつこくて困る」「騙されて会館に」「故人を見送りたいのは他宗教の人だって同じなのに学会的身内ノリで入っていけない」等々、「不愉快さ」を伴って。
上記の二つの話で(一つは勧誘を聖教新聞に例える話ではあるが)、私が聞いたどん以外からの学会不愉快エピソードがまた増えたことになり、しかも「新聞」「選挙」「折伏」「葬式」、全てを網羅している。
私がたまたま学会話に縁があるというよりも、そういう体験をしている人が多いと考える方が自然だと思う。

学会的言い訳に「非常識なのは一部の人、そういう人が学会全体の足を引っ張る、多くは真面目に頑張っている」というものがある。
果たしてそうだろうか。
その一部の学会員が全国を行脚して、非常識な振る舞いをして歩くのだろうか。
私の周囲の、私を介さなければ互いに面識のない友人知人達が体験した出来事は、その一部の学会員の仕業だろうか。
確かに、同じ学会員が吃驚するほどの非常識な振る舞いをする学会員はいるだろう。
だが、「学会の人って、困るんだよね」と世間の人が認知するに至るようなことをしでかし、世間に「学会迷惑体験」が増えていくのは、学会の性質上、その「非常識な一部の学会員」だけではないはずだ。
学会活動家の、その多くが何かと迷惑をかけていると書くのは些か乱暴かもしれない。
だが、学会組織の維持、拡大のための日々の活動を考えれば、決して言い過ぎではないような気がする。
相手に不愉快な思いをさせるかもしれない、と怯んでいては、新聞啓蒙も折伏も選挙運動も出来ない。
学会員が活動を怯むと困る内部の人間が出てくる。
だから学会は「相手は嫌がっていても、その思いは必ず届く」「自分たちは正しいことをしているのだから、堂々と進め」などという「自分たちの行動が正当である」理由を用意し、「相手にとって迷惑かも」という想像力を奪ってしまっている。
だが、本当に世間一般には嫌なものは嫌、迷惑なことは迷惑なのだ。
中には「良かった」と思う人がいるかもしれないが、こうして様々な人が「学会不愉快エピソード」を持っているということは、迷惑に感じた人のほうが多く、つまり「思いはいつか届く!」としつこくしたって不愉快さやストレス、学会への嫌悪感が残るだけで、思いが届くことはないということだ。
「自分が良かれとしたこと」が本当に相手に迷惑がかかっていないのか、嫌な思いをさせていないか。
「断ってくれてもいい」くらいの気持ちでお願いしたことが、相手には友人関係や仕事関係など、断りにくい状況を背景に頼まれているように受け取られていることはないだろうか。
「自分は常識がある活動家だ」と思っているつもりでも、そもそも活動していること自体が、実は周囲に迷惑がかかっているということもあるのだ。
どんもまた「今思えば、活動のために人に迷惑をかけるようなこと」をしてきたという。
でも当時は、それは正しいことなのだと信じていたのだというし、おそらく学会内からも真面目で熱心な活動家だと思われていたのだろう。
前述の「非常識なのは一部の人、多くは真面目に頑張っている」。
真面目に仏法を学んだり、題目を仏壇に向かってあげるくらいなら、誰も困りはしない。
しかし自分たちだけに通じる論法や理由で、人に強く何かを勧めるような活動を頑張る「真面目さ」は、いくら「真面目」であっても、往々にして周りに辛い思いをさせる。
学会内しか通用しない「真面目な頑張り」、残念ながらそれは独りよがりでしかない。

悪意ではないのは分かる。
だが、悪意がないから何をしても許されるということはない。
人間は簡単に善悪に分けることは出来ない。
だから、私はその人達を悪だとは思わない。
ある部分では良い人であるだろうけれども、同時に他者の思いを考えられない想像力を奪われた人でもあると思う。
人に嫌な思いをさせてまで、組織の言うことに従う必要があるのだろうか。
人に「迷惑なんだよね、あの学会員さん」と言われてまで、ノルマをこなす必要があるのだろうか。
組織の都合の良いルールに従って他者を傷つけるよりも、そのルールに背いてでも様々な価値観を持つ他者と円滑で充実した人間関係を育むほうが、遙かに人生に福をもたらすのではと私は思う。