子どもの頃の喧嘩の光景、少女漫画の意地悪な子(主人公のライバル)の捨てぜりふ。
「あなた、私に嫉妬してるんでしょ?私が羨ましいのよ、そうでしょう?」
大人になって、そんなセリフを見聞きすることもないだろうと、郷愁に浸りかけた私を引き戻してくれた団体がある。
言い換えれば、大人になってまで、そんな次元の低い逆ギレを目にするとは、思わなかった。
創価学会は相変わらず、「嫉妬」がブームのようである。
新聞も、学会系雑誌も。嫉妬、嫉妬、嫉妬、嫉妬。
単に僻まれているわけではなく、それ相応の理由があって嫌われていることに対して「嫉妬している」で片づける。
「嫉妬している」は学会批判に対抗する、「前提として私は正しい論」の最上級に近い思考停止語ではないだろうか。
「嫉妬してるのね」そう思ってしまえば、周囲の声全てを耳に入れずに済む、どうして自分達が批判されるのか、考えずにすむ。
自分を高い位置に置いたまま、相手を見下すことが出来る。
周囲の声を一言で黙らせることのできる効力を持ちながら、周囲の声など聞き入れないわよという最終宣告の意味も持つ、「嫉妬してるのね」。
しかし最上級というからには、最終宣告というからには、後がない。
少女漫画の意地悪な子の捨てぜりふも「捨て」というだけあって、去りゆく間際の一言である。
後がないことに加えて、その言葉が効力を発するのは「本当に相手が嫉妬している時だけ」である。
相手が嫉妬していなければ、何の効力もない、ただの逆ギレの思考停止語である。
私は嫉妬をしていない。
創価学会を羨ましいと思うこともない。
どんを羨ましいとは思わないし、どんも羨ましがってほしいとも思っていないだろう。
「羨ましいでしょ?嫉妬してるんでしょ?」
と言われても、「別に」としか答えようがない。
というか、創価学会を嫉妬してる人なんて、いるのか?
では逆に、創価学会は、どこを嫉妬されていると思うのだろうか?
「学会員、皆、輝いているでしょう?」
学会員であるがゆえに、苦しんでいる人もいるようですが。学会流の輝きが、人を苦しめていることもあることに気づいてますか?
「現在の権力・影響力を築きあげた金銭力や組織力を羨ましいでしょう?」
羨ましいと思う団体(政党・新興宗教団体とか?)はいるでしょうけど、そういう力と引き換えに失う社会的信用という犠牲を思えばリスキーかも。一般人には用なしだし。
「名誉会長という尊敬できる人がいるわ」
誰を尊敬するのも自由。その相手の有無に優劣を付けるなど愚。尊敬する対象を「与えられ」尊敬するように「教え込まれて」いるに過ぎないと思いますが。(というか、秋谷会長は……?)
「日本が外交で中国韓国と上手くいってなくても、創価学会(名誉会長)は両国から尊敬されてる」
外交責任がないから好きなことを言えるんですけどね…創価学会が法輪功のような扱いを受けても困るから気を遣ってるんですか?でも、利用してるつもりが逆にプロパガンダに利用されていませんか?というよりかの国々もプロパガンダに利用する相手を間違ってると思います。創価学会なら、ますます逆効果。イメージダウンですから。
「芸能人もたくさん学会員なのよ」
価値を決める基準が芸能人の数って、如何なもんでしょうか。
と、まあチマチマと返し始めるときりがないが、一体全体、何を根拠にどこを嫉妬されていると思うのか、更にそういう結論に持っていく思考が理解できない。
「嫉妬」は学会内部における「学会員対策」ではないだろうか。
学会批判を展開するマスコミが、おきまりの新潮・文春以外にも増えてきている。果てはアメリカの経済誌フォーブスまでが特集をした。
ネットの普及で、誰でも意見を発することが出来るようになった。蓋をされてきた個々の学会員レベルによる人権侵害が不特定多数の人に語られるようになった。ネットの匿名性に守られアンチだけでなく、学会員自らが学会組織に疑問の声を上げるケースも出てきた。
それらを見聞きし、学会から離反する人々もいるだろう。
加えて、祖父母・親世代への強引な折伏の結果次世代へ受け継がれた学会への負の感情、個を尊重されて育った「組織のために個を犠牲にすることを美徳としない」世代の学会への食いつきの悪さとジェネレーションギャップ、仏法に興味を持っても組織を拒否する人々、仕事や家庭を重視し学会に全てを注ぎ込まなくなる人々、生まれる人材不足。
学会価値観が揺らいでいる。
勝利勝利と煽り、過激な檄を飛ばして仮想敵を作り、強引に拡大して組織をまとめてきた時代のやり方では、やっていけない。
むしろ、そういうやり方でやってきたからこそ、社会と修復しがたいズレが生じ、こういう結果が生まれたのでは当然のことかもしれない。
組織に追随してきた妄信型の学会員さん達はこの状況に戸惑うだろう。
学会組織を忠実に支えてきた屋台骨は彼ら彼女らである。そういう人々を戸惑わせないために、大きくなっていく社会の流れから守るための、気づかせないための、対策。
それが、「ほら、あいつらウチらに嫉妬してるんだから、気にしなくていいよ」。
……………舐めてる。すっごい舐めてる。
人を説得させるには、「嫉妬」とはあまりにも稚拙な言葉である。
学会が舐めているのは、学会を支えてきた学会員自身。
この程度の言葉で、学会員が納得すると、不安に思ってもこの言葉で明日からまた「戦い」に身を投じてくれると思っているのだ。
そもそも嫉妬心で批判しているわけではない相手に対して何の効力もないどころか、学会を信じる学会員に対しても具体的ではない、まるでなだめるような、付け焼き刃のような言葉である。
「嫉妬」を誰が言い出したのか皆目検討もつかないが、名誉会長ともあろう御方がこんな子どもの喧嘩みたいな言葉を言い出すとも思えないが(勿論嫌味)、何にしても出尽くした感が漂う。
思考停止語の最上級、最終宣告、捨てぜりふの「嫉妬してる」。その次は、どういう言葉が出てくるだろうか?
------------------
私は性犯罪者は極刑で良いと思っている。それに加えて人の信仰心・弱みにつけ込むような輩は本当に許せない。
一連の聖神中央教会報道の中での証言でどこぞのよく似た言葉を聞く。
「(信じなければ)地獄に堕ちる」[え?仏罰があたる?]
「(アトピーが治らなければ)信心が足りないから」[嫌なことは信心が足りないから?]
証言以外にも、容疑者の礼拝での発言、アメとムチの使い分け、家族ごと巻き込むやり方……、人を掌握するというやり方は、結局のところ同じなのだろうか。
「現在の権力・影響力を築きあげた金銭力や組織力を羨ましいでしょう?」
学会のこういう側面を羨ましいと嫉妬しているのは、この容疑者かもしれない。
人を痛めつける掌握術がまかり通らないことがまたひとつ、証明されて良かった。
とはいえ、被害少女達の癒え難い傷を、思うだけで悲しい。
「あなた、私に嫉妬してるんでしょ?私が羨ましいのよ、そうでしょう?」
大人になって、そんなセリフを見聞きすることもないだろうと、郷愁に浸りかけた私を引き戻してくれた団体がある。
言い換えれば、大人になってまで、そんな次元の低い逆ギレを目にするとは、思わなかった。
創価学会は相変わらず、「嫉妬」がブームのようである。
新聞も、学会系雑誌も。嫉妬、嫉妬、嫉妬、嫉妬。
単に僻まれているわけではなく、それ相応の理由があって嫌われていることに対して「嫉妬している」で片づける。
「嫉妬している」は学会批判に対抗する、「前提として私は正しい論」の最上級に近い思考停止語ではないだろうか。
「嫉妬してるのね」そう思ってしまえば、周囲の声全てを耳に入れずに済む、どうして自分達が批判されるのか、考えずにすむ。
自分を高い位置に置いたまま、相手を見下すことが出来る。
周囲の声を一言で黙らせることのできる効力を持ちながら、周囲の声など聞き入れないわよという最終宣告の意味も持つ、「嫉妬してるのね」。
しかし最上級というからには、最終宣告というからには、後がない。
少女漫画の意地悪な子の捨てぜりふも「捨て」というだけあって、去りゆく間際の一言である。
後がないことに加えて、その言葉が効力を発するのは「本当に相手が嫉妬している時だけ」である。
相手が嫉妬していなければ、何の効力もない、ただの逆ギレの思考停止語である。
私は嫉妬をしていない。
創価学会を羨ましいと思うこともない。
どんを羨ましいとは思わないし、どんも羨ましがってほしいとも思っていないだろう。
「羨ましいでしょ?嫉妬してるんでしょ?」
と言われても、「別に」としか答えようがない。
というか、創価学会を嫉妬してる人なんて、いるのか?
では逆に、創価学会は、どこを嫉妬されていると思うのだろうか?
「学会員、皆、輝いているでしょう?」
学会員であるがゆえに、苦しんでいる人もいるようですが。学会流の輝きが、人を苦しめていることもあることに気づいてますか?
「現在の権力・影響力を築きあげた金銭力や組織力を羨ましいでしょう?」
羨ましいと思う団体(政党・新興宗教団体とか?)はいるでしょうけど、そういう力と引き換えに失う社会的信用という犠牲を思えばリスキーかも。一般人には用なしだし。
「名誉会長という尊敬できる人がいるわ」
誰を尊敬するのも自由。その相手の有無に優劣を付けるなど愚。尊敬する対象を「与えられ」尊敬するように「教え込まれて」いるに過ぎないと思いますが。(というか、秋谷会長は……?)
「日本が外交で中国韓国と上手くいってなくても、創価学会(名誉会長)は両国から尊敬されてる」
外交責任がないから好きなことを言えるんですけどね…創価学会が法輪功のような扱いを受けても困るから気を遣ってるんですか?でも、利用してるつもりが逆にプロパガンダに利用されていませんか?というよりかの国々もプロパガンダに利用する相手を間違ってると思います。創価学会なら、ますます逆効果。イメージダウンですから。
「芸能人もたくさん学会員なのよ」
価値を決める基準が芸能人の数って、如何なもんでしょうか。
と、まあチマチマと返し始めるときりがないが、一体全体、何を根拠にどこを嫉妬されていると思うのか、更にそういう結論に持っていく思考が理解できない。
「嫉妬」は学会内部における「学会員対策」ではないだろうか。
学会批判を展開するマスコミが、おきまりの新潮・文春以外にも増えてきている。果てはアメリカの経済誌フォーブスまでが特集をした。
ネットの普及で、誰でも意見を発することが出来るようになった。蓋をされてきた個々の学会員レベルによる人権侵害が不特定多数の人に語られるようになった。ネットの匿名性に守られアンチだけでなく、学会員自らが学会組織に疑問の声を上げるケースも出てきた。
それらを見聞きし、学会から離反する人々もいるだろう。
加えて、祖父母・親世代への強引な折伏の結果次世代へ受け継がれた学会への負の感情、個を尊重されて育った「組織のために個を犠牲にすることを美徳としない」世代の学会への食いつきの悪さとジェネレーションギャップ、仏法に興味を持っても組織を拒否する人々、仕事や家庭を重視し学会に全てを注ぎ込まなくなる人々、生まれる人材不足。
学会価値観が揺らいでいる。
勝利勝利と煽り、過激な檄を飛ばして仮想敵を作り、強引に拡大して組織をまとめてきた時代のやり方では、やっていけない。
むしろ、そういうやり方でやってきたからこそ、社会と修復しがたいズレが生じ、こういう結果が生まれたのでは当然のことかもしれない。
組織に追随してきた妄信型の学会員さん達はこの状況に戸惑うだろう。
学会組織を忠実に支えてきた屋台骨は彼ら彼女らである。そういう人々を戸惑わせないために、大きくなっていく社会の流れから守るための、気づかせないための、対策。
それが、「ほら、あいつらウチらに嫉妬してるんだから、気にしなくていいよ」。
……………舐めてる。すっごい舐めてる。
人を説得させるには、「嫉妬」とはあまりにも稚拙な言葉である。
学会が舐めているのは、学会を支えてきた学会員自身。
この程度の言葉で、学会員が納得すると、不安に思ってもこの言葉で明日からまた「戦い」に身を投じてくれると思っているのだ。
そもそも嫉妬心で批判しているわけではない相手に対して何の効力もないどころか、学会を信じる学会員に対しても具体的ではない、まるでなだめるような、付け焼き刃のような言葉である。
「嫉妬」を誰が言い出したのか皆目検討もつかないが、名誉会長ともあろう御方がこんな子どもの喧嘩みたいな言葉を言い出すとも思えないが(勿論嫌味)、何にしても出尽くした感が漂う。
思考停止語の最上級、最終宣告、捨てぜりふの「嫉妬してる」。その次は、どういう言葉が出てくるだろうか?
------------------
私は性犯罪者は極刑で良いと思っている。それに加えて人の信仰心・弱みにつけ込むような輩は本当に許せない。
一連の聖神中央教会報道の中での証言でどこぞのよく似た言葉を聞く。
「(信じなければ)地獄に堕ちる」[え?仏罰があたる?]
「(アトピーが治らなければ)信心が足りないから」[嫌なことは信心が足りないから?]
証言以外にも、容疑者の礼拝での発言、アメとムチの使い分け、家族ごと巻き込むやり方……、人を掌握するというやり方は、結局のところ同じなのだろうか。
「現在の権力・影響力を築きあげた金銭力や組織力を羨ましいでしょう?」
学会のこういう側面を羨ましいと嫉妬しているのは、この容疑者かもしれない。
人を痛めつける掌握術がまかり通らないことがまたひとつ、証明されて良かった。
とはいえ、被害少女達の癒え難い傷を、思うだけで悲しい。