妻はアンチ、夫はバリバリ。archive

創価学会員の夫と結婚した創価学会アンチの妻の記録。
創価学会なぞ笑い飛ばす気持ちで。すったもんだの後、
夫は緩やかに非活へ。現在は穏やかな日々。夫公認。更新及びコメント受付終了。アーカイブ化。
※学会員との結婚や交際を推奨するものでも、安心材料となるものでもありません。
※しっかり話し合い、答えを見つけるための参考になさっていただければと思います。

2005年03月

鬼嫁の闇

年度末で大きな会合が立て続けにあるらしく、どんのスケジュールが不規則になった。
それなのに、どんは「どこに行って何時に帰る予定か」ということを私に伝えるのを忘れる。
そのことは、ブログでも書いたけれど。
昨日もやっぱり、忘れていた。
一人で食事をしながら、ふと、「普通の新婚家庭」というものは、一体どういうものだろうかと考えてみた。
体験したことがないのでわからない。
普通なんてない。そう片づけて、ご飯も片づけた。
一人の食事は食べるというよりは、片づけるに近い。
このところ、私も仕事上での不条理なクライアント(+我が社営業マン)の都合に振り回されており、イライラは募っていた。さらに長期バイトのお気楽2世さんが、かつて学会に苦しめられた先輩デザイナーに向かって「創価学会は悪い宗教じゃないですぅ、普通の宗教ですぅ」と無邪気に言い放ち、人の痛みに鈍感で無神経な声が拍車をかけていた。学会を悪く言う人は大抵学会に傷つけられている。少し考えれば分かるのに、自分の立場をスタンダードに置きたいために言葉で人の心を貫く。そして知らずに、現在進行形で学会のことで悩んでいる私の心を踏みにじる。「知らない」ということは時に暴力だ。未活とはいえ所詮、学会員思考。
でもってトドメは、どんの創価学会様活動。
どんが帰ると間もなく、喧嘩が始まった。話は広がり、創価を巻き込む。
触れないでおこうとしても、そもそもの元凶は学会様。どんなにどんが生活と活動をバランスを取ろうとしても、それを壊すのは学会様。どんは「ごめんね」と言いながら出かけていくが、謝るのはどんじゃないだろう。
喧嘩が始まり、元凶の創価に言及して、どんは学会をかばう。
それでもって、私の頑固で素直でない性格が災いし、ますます大変なことになる。
そんな深夜、1:30。どんの携帯が鳴った。
いわずもがな、学会員。会合の打合せをメールでしていて、電話のほうが早いと、そういうことで。
朝じゃだめなんだそうだ。1:30じゃないとダメなんだそうだ。
大事な学会の会合のためには、深夜に電話してもいいという独自のルールが存在しているらしい。
いつもなら寝ている時間帯だ。きっと着信音に起こされた。
頭に血が上り、電話に出るどんに向かって相手の学会員に届けとばかりに、「ふざけるな!」と叫んだ。遠慮して、声を抑える余裕は、私にはもう残されていなかった。
それが、どんの逆鱗に触れた。
どんだって、いろいろ考えてくれている。実行してくれている。温厚で思慮深く寛大で聡明でユーモアがあり、私には過ぎた男だ。わかっている。わかっているけど、私は、こういう形で浸食してくる創価学会が許せない。
私の心が狭いのだろう。叫んだことも、私が大人げないと分かっている。
なのに、私は、謝れなかった。そして私は醜い自分を責める。
悪いのは私だけか?寛大になりきれない私がいけないのか?
自分を責めながら、自分を正当化しようともしている。
どんに欠点を指摘され責められる。言葉の応酬が始まる。
そして私は混乱し、泣き叫んだ。

こんなことが、信仰か?勤行以外の運営のための雑務で、人の生活を振り回すことが、信仰のすることか?
労働を評価する正当な報酬も発生しない、そんなもののために…いやお金の問題じゃない。
宗教という、形のない、実在するかどうかわからない、明かす手だてもなく、結果の見えないものを捕まえて「真実」だと称する。人が作り出した哲学の一つにすぎないものなのに。
全ての幸いなことを、その「真実」に結びつけて喜び、災いを「真実」を信じる心が足りないと落ち込む。
宇宙や、平和や、科学を「真実」に結びつけ、「真実」を犯す者には攻撃をいとわない。
自分たちとは異なる「真実」を持つ者にも、容赦なく攻撃する。自分たちこそが「唯一無二の真実の継承者である」と叫んで。
そして「真実」が理解できない者を「心が貧しい」と蔑む。
その「真実の存在」を「継続」するために組織を作る。それを運営する。形のないものを生活の中心に据える。そして無関係な人間を巻き込む。
私は理解できない。全く理解できない。理解しようと思わない。唯物主義だとか魔だとか心が貧しいとか、好きに言えばいい。つい先日も、このブログに現れた通りすがりの2世の子どもが好き勝手に罵声を浴びせて去っていった。傍若無人な態度を冷ややかに叱りつけても、また創価学会に疲労させられただけだ。
血が乾かないうちに傷を踏みつけていく 創価学会に、その「真実」とやらのために、愛する男と諍う私の痛みが、わかってたまるか。
私は、どうして結婚したのだろう。一人でも細々と生きて行けたのに。
10代前半からのただ苦しいだけの紆余曲折の時間の果てに、やっと掴んだはずの愛し愛されるという暖かな幸せが揺らぐ。
いや、私は幸せなはずだ。なのに欠けたままの心は、埋まらないまま。

また、どんが帰宅時間を伝え忘れていた。言ったつもりになっていたらしい。かけた電話の向こうで苛立った声がした。
今日も一人、ご飯を片づける。今日はもう、一人分の食事。
サッカーは日本が勝ったのに、興奮は小さい。
友達が勝利の雄叫びメールを送ってきた。気づかれてはならない。気力を振り絞って、一緒に喜ばなければ。
携帯を掴む。文字だけで無理矢理喜ぶ。
誰も知らない。私の痛みは、誰にも言わない。
私がどこの誰か知らない、ネットの世界に吐き出す。苦しいと叫ぶ。
そうして明日、私はまた社会に出ていく。
仕事をし、面白いことを言って後輩を笑わせ、時々息を抜いて、また仕事に励み、残業をして、家に帰る。
こうして日々は、続いていく。
活動が落ち着けば、またどんと上手くやっていけるだろう。
何も解決されていないまま。
創価学会がある限り、解決はしないだろうけれど。
傷つけるなら、傷つければいい。振り回したいなら、好きなだけ振り回してみろ。
私だけじゃない多くの人の傷を痛みを、そうして踏みにじっていけばいい。
でも私がいつか死ぬように、創価学会もいつかなくなる。
永遠など、存在しない。
栄えたものは、いつか滅びる。
形がないものを、形にしたからには、絶対に逃げられない。
それは地球の歴史の中で、一つの事柄が生まれ栄え滅ぶを繰り返すことで証明した、揺るがない本物の「真実」。

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これだけじゃ、あれなんで。
嬉しかったことを記しておく。
急遽入った仕事の打合せで広告代理店の担当者さんと会った。
本来、営業とセットで動くのだが、我が社の営業が丸投げしてくるので、実質私が切り盛りする仕事である。
さほど大きい物件ではないから、一人でも問題ない。(むしろ営業が絡むことの方が恐ろしい…)
急遽入って短納期で閉口してしまうのだが、1年以上やっているので慣れてしまった。(というか多くの仕事が短納期なので今更…)
同時進行でいくつもの他の物件が進むなか、やりくりして対応している。
今回も急遽で、しかも電話とメールとFAXのやりとりで終わるいつもの物件とは違う新規物件。
初顔合わせ以来のお呼び出しである。
縁遠い巨大なビルの商談ルームの中で何故か落ち着かない。見渡せばビジネススーツの男性ばかりが商談している。落ち着かない原因は場違いな空気を発する私自身だった……。(どんとの喧嘩の名残で目も少し腫れてるし)
打合せが終わり、担当者さんが私に頭を下げた。
「このクライアントはいつも急で、本当に申し訳ないんですが、あなたのお陰で本当に助かっています。頼りにしています」

晴れ晴れとした気持ちで、外に出た。
会社でもかけられることのない言葉が、嬉しかった。
青い空と、爽やかな春風が、報われた私を包んだ。
大丈夫。やっていける。

もっと、もっと。

サッカーがいろいろ気になるシーズンです。
W杯予選もさることながら、Jリーグのシーズンが終わるまで気になるわけです。
今年の地元のチームはどうだろうとか、誰か代表に呼ばれないかなとか。
万が一でも優勝したら、優勝景気で広告の仕事が増えるかなとか。

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先月だったか、今月初めだったか。
名誉会長がインフルエンザで同時中継欠席という事があった。
それを知ったのは、学会員のどんからではなく、インターネット。
そして、どんは、名誉会長が欠席したことを知らなかったのである。

さて、どんの学会員的名誉のために補足しておくと、二回(三回?二日か三日連続だったはず)あった同時中継のうち、一回はどんは着任しており、屋外にいた。…なので知らない、と、そういうわけなのだが。
残りの一回の同時中継では着任していなかったが、どんは出ていないのである。
……あれ?名誉が回復されていないぞ?
その日がいつだったか記憶が曖昧なので、どんが何をしていたのかさえ思い出せないが、仕事をしていたか、家で休んでいたか、そんなところだろうと思う。
じゃあ、周囲は教えてくれなかったのかというと、「中継に参加してるものだと、知ってるものだと思われていて、わざわざ誰も教えてくれない」とのこと。
それでもって、何も知らずに過ごしているところへ、アンチの妻から「名誉会長ってインフルエンザで中継欠席したって?」と報告されて驚愕するわけである。
これでも、どんはバリ(自称)活動家学会員。

学会における「活動家」のパターンなんて、おそらくは人それぞれだろう。
人材グループ活動がメインの人、役職で地区をまとめるのがメインの人、折伏や啓蒙がメインの人、仏法の勉強がメインの人。
さらに、人材グループ活動+折伏メイン、折伏+仏法勉強メイン等、組合せは多岐に広がっていく。選挙時にはほぼ全員に「+選挙」とつくのだろう。
私から見るとどんは「人材グループ活動+仏法勉強(+選挙)」といった所だろうか。
折伏セミナーの常駐や手伝いで話をすることはあっても、個人的に友人を折伏した、という話はここ数年は聞かない。
学会は「入決(折伏成功?)数は多ければ多いほど良い」と言うならば、どんは失格だろうが、どんにしてみれば「闇雲に折伏して数を増やせば良いというものではない」という考え方であるらしい。「相手にとって必要だと思ったら、勧めてみる」という折伏スタイルで、さらに「折伏した人を増やしても、増えれば増えるほどその人たちの面倒が見切れなくなる。そうすると置いてけぼりになる人が出てくる。そうなってはその人に申し訳ないから、自分が出来る範囲のことをする」と、そのようなことを言っていた。
とはいえ、今は創価班にかかりきりらしく、折伏どころではないようではあるが。
私が知る限り、どんが最後に折伏したのは数年前、しかも折伏した相手の「合わないから辞めたい」との申し出を受けて、退会させているケースだ。

もう少し、どんの創価スタンスに触れる。
名誉会長は「尊敬してるけど、神格化したくない」
失言は「オヤジギャグかなあ」(←にしては程度が低いだろ)
ゴーストライターの存在は「聞いたことがある」
罵倒座談会は「馬鹿だなあ」
財務は「年末は苦しいのであまり…」※ウチは夫婦それぞれに収入があるので、生活費と共同の貯金のみ折半で出しあい、それ以外はそれぞれの収入なので各自の管理。従ってどんの学会活動費はどんの自腹。
新潮や文春は「タイトルは派手だけど、記事は今更感が…」
信濃町は「興味ない。聖地化している人がいるけど、そういうのはどうかと思う」
妄信学会員は「学会の足を引っ張ってる」
会合は「着任以外は仕事優先。着任と仕事が重なって、スケジュールのやりくりが難しければ仕事が優先」
仏法は「哲学」
学会にいる理由「一人で仏法の勉強を続けていけば『自分教』になる」
新聞は「聖教新聞とSGIグラフと公明新聞。それ以外の雑誌は買ってない。新聞啓蒙はしてない」

短文では言い切れないが、強引にまとめるとこういう感じだろうか。
この問いを100人の学会員に問えば100通りの答えが戻るだろう。
活動に対する考え方はそれぞれ違うはずだ。
似たり寄ったりもあるだろうし、個人の考え方や生活スタイルの差も出るかもしれない。
妄信タイプの学会員から見れば「なんて不謹慎な!!不真面目な!!(斜めの「!」)」となるのかもしれないが、末端とはこんなものではないだろうか。
(それでも、いざ学会活動に出れば、周囲や非学会員に迷惑をかけるような強引なことをする人がいるわけだが。生活を優先しても、ひとたび活動に入れば一気に妄信スイッチが入る人もいれば、あんまり変わらない人もいるだろう)

学会が広宣流布とやらに躍起になっても、各種啓蒙を焚きつけても、活動を推進しても、末端の学会員には末端の、事情や優先するべきものがある。
学会あっての生活や仕事ではなく、生活や仕事あっての学会である。

幹部クラスから地区の末端へ、活動の丸投げ現象があるという。
上から下へ下へと、会合やら人材グループの雑務やらなんやら、丸投げで降りてくる。
思うに、末端に限らず幹部クラスから末端に至るまで、学会活動より優先したいものがあるから下へ放り投げているのではないだろうか(サボりたい人や、やらせることが信心だと思っている人や、無責任な人もいるのだと思うが)。
とはいえ、誰かがやらねばならぬというものらしく、結局、誰かが担当したり、生活より学会が大事な人が張り切ったりするのだろうが。
そんな負担になるもん、やらせんなよ。
学会は「学会員は社会で前向きに働いて輝く姿を見せてこそどーのこーの」的なことを新聞で言っておきながら、仕事や生活を浸食するほどの数多い会合スケジュールを組み、啓蒙を推進しているあたり、学会員が仕事や生活を優先させて学会活動を眠ってしまうのを防ぐ魂胆がモヤモヤと見えてくる。
犠牲を犠牲だと思わせないように工夫しながら。
学会員個々の生活より、学会組織のほうが大事なのではないだろか。
とはいえ働かなきゃ、財務は払えないんじゃございませんこと?
お金も欲しい、学会員増やして欲しい、無償労働もして欲しい、でも学会員は常識がないと言われるのは困るから常識的な体面は保って欲しい、学会関係の新聞や雑誌はダブってでも買って欲しい、未活動を起こして欲しい。
あれもこれも、もっともっと、と組織の強化のための要求だけは凄まじい。

中には生活犠牲にしても学会活動大事!(というか犠牲だと気づいていない)と要求に次々と応えようとする妄信学会員様もいらっしゃるだろうけれど。

創価スタンスに話は戻る。
学会がどんなに煽っても、結局のところ学会は一枚岩にはならないし、学会員全員が学会のために必死で活動するわけではない。
職員でもないかぎり、学会が学会員の生活を面倒見てくれるわけではない。正直なところ大事なのはそれぞれの生活がまず大事なはずである。
無理をして学会活動をすることに、何か意味があるのだろうか。
それは無理ではなく、努力だと言うかもしれないが、基盤となる生活を後回しすることは無意味な努力ではないかと思う。
個々の生活基盤を無視して活動に力を費やすからこそ、そういう学会や学会員の姿が世間には奇異に映るような気がする。
それぞれの創価スタンスがあっていいはずである。
学会や妄信学会員がいちいち「学会員はこうあるべき」「こういう姿が真の学会員」と指し示す必要も押しつける必要もないような気がする。
「迫害されても、アタシ達、この信仰を貫くワ!」と学会員の皆様が健気にも(嫌味)おっしゃっているわけだから、そういう方々に次々要求を突きつけるのではなく、もうちょっと考慮のしようも配慮のしようもあるんでないかと思うのだが(うちのどんにも配慮よろしく)。
やっぱり、学会員の皆さまよりも、組織の強化が大事なのだろうか。



追記:誤解を招く不適切な表現があったので、訂正しております。詳細はコメント欄にてご確認ください。
様々な立場の方が読まれるため、表現には気を付けているのですが見落とした箇所がありました。
今後はより一層の注意を払います。申し訳ありませんでした。

鬼嫁上等

朝。
遠方にいる友人に会いに行く私が出かける支度をしていると、どんが起きてきた。
日曜の朝なのに、早いお目覚めである。
朝の挨拶をすると、どんも出かける支度を始めた。
「どっか行くの?」
「勤行。出発式に行くの」
「朝からケッコウなことで。で、誰がどこに出発するの?見送り?」
「は?」
「だから、出発式って」
「どこにも行かないよ」
「いや、だから出発」
「ああ、朝、みんなで題目あげるの。で、出発っていうのはそれぞれの人生に向けての出発ってことさ!」(わざとらしい笑顔)
「………………クサい」
鬼嫁級の捨てぜりふを吐く。
わざとらしい正義の言葉には、プロレスのヒール級の罵倒で返してやりたいところだが、朝からそんな元気はない。いっそ鬼嫁になりたい。
しかし非常に、ごもっともなことをおっしゃっているが、青臭さが匂ってくるのは何故だろうか。
相変わらず大映ドラマに出てくる熱血教師(やコーチや優等生やリーダー格)が誰かを励ますセリフのようである。することなすこと、いちいち劇的で大袈裟で暴力的強制的ポジティブシンキングに持っていくのは、この集団の特徴なのだろうか。
「そんなこと、本気で思ってないくせに」
どんに白い視線をプレゼントしながら言うと、どんは笑った。
「まあ、単に名称だからね」
集団が大袈裟でも、末端はそんなもんである。

夕方。
用事を済ませて電車の中。
車窓に流れる景色の中に佇むパチンコ屋の屋根の上の大きな電飾看板、「パチンコ」の「ハ」の部分の電飾が切れていた。
薄曇りの夕暮れにダイレクトに浮かび上がる男性器の俗称。その侘びしく哀しい情景に笑いを必死にこらえながらの帰路。
駅までどんが迎えに来てくれた。
スーパーで買い物をするという私に、どんは一言。
「あ、俺、今から会館に行くから、帰りは11時くらいになるかな」
「はあ?聞いてねえよ」
予定を言わない貴様にはメシなどないわとブチキレしながらも、何故かスーパーで購入するのは二人分の夕食の材料。
鬼嫁になりたい。
なりきれない甘い私に打ちひしがれながら、家の前でどんと別れる。
どんは会館へ。私は家へ。
車のドアを閉め際に叫ぶ「この馬鹿学会員!」というお約束の罵倒にどんは「ウヒャヒャヒャ!」といつもの笑いで返す。
「鬼嫁上等、打倒創価」と赤い筆文字でプリントした黒いTシャツを作りたい。

夜。
「鉄腕DASH」を見ながら食事を作り、一人で食事をし、自室でお茶をすすりながら「鉄腕DASH」を見ていると、予定よりも早くどんが帰宅した。
おお、もう帰ってきたのねとウキウキしていると(←この辺新婚空気)、「ご飯食べたらまた会館に行くから」
メシを食べに帰ってきたのか貴様!!
再び出かけていくどんに、もはや怒鳴る気力もない。
それは犠牲ではないかと言うと、どんは犠牲だとは思わないという。
どんは犠牲だとは思わないというそれをマインドコントロールという。
というか、私には大いなる犠牲である。
日頃忙しいんじゃ。日曜の夜くらい、夫とゆっくり食事をさせやがれ。
そのつもりで、真っ直ぐ家に帰ってきたのだが。
それに対しては申し訳ないと思っているらしく、食事をすると、ごめんねえ、と言いながらどんは出かけていった。
腹立たしいので、玄関ドアにセットしている防犯アラームのスイッチ入れてやる。
我ながら、程度の低い嫌がらせである。
やっぱり、女子プロレス並のメイクをして、鬼嫁Tシャツを着て、竹刀を持って玄関前で仁王立ちをしておいたほうが良いだろうか?その格好で会館までどん迎えに行ったらどうなるだろうか?
しないけど。
自分が創価が嫌いだからといっても、私にはどんを拘束する権利も、どんの行動を独占して自由を奪う権利もないのだ。
どんはどんで気を遣っているのはよく分かる。こんな日があるのとは逆に、私と出かけるために会合に行かない日もあるのだ。
もっともっとと貪欲になるのは、単に私のワガママでしかない。
だから物わかりの良い顔をして、私はどんを送り出す。
でも時々、そういう感情が吹き出して、どんを困らせる時がある。そういう時、どんは私を優先するか、埋め合わせをする。どんの申し訳なさそうな顔に、私は自分の身勝手さに自己嫌悪に陥る。
鬼嫁になりたいとかいいつつ、十二分に鬼嫁的言動をかます私は鬼嫁の素質十分ではある。
っていうか、すでに創価学会から見たら、学会員の夫を持ちながら学会批判をし学会嫌いを貫く私は鬼嫁なのであろうが。
鬼嫁上等。

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「鉄腕DASH」が好きで、よく見ているのだが、私の心を捕らえて離さない企画がある。
「TOKIO vs 100人刑事」缶蹴りである。
山手線内の15カ所の公園に缶を置き、先に5個蹴ればTOKIOの勝ち、5個蹴らないうちに刑事がTOKIOを全員確保したら刑事の勝ち。コナンのような少年から中年まで、性別職業年齢様々な100人刑事集団を率いるのは、本物の元刑事(本日、6連敗)。
それが好きなのだ。好きだというよりも。
捕まえたい!!!もしくは缶を蹴りたい!!!
私には夢がある。
大人になったからこそ、あえてしたい。
大人だから出来る、大人の大規模缶蹴り。
「鉄腕DASH」でおなじみのビーコン(参加者全員が装備し敵が近づくと音が出る装置)を胸に携帯電話・無線・自転車・自動車・タクシー・電車、交通手段問わず、規模もどーんと広く。
やりたいやりたいやりたいやりたいよおおおおおママン!!!!
よっぽど、どんを抱き込んで、創価学会様の組織力とやらを利用して計画したいくらいである。
「華vs100人創価刑事」
……捕まったら入信とか条件出されそうだから辞めよう。逆境シチュエーションに燃えても体力がないからすぐに捕まってしまいそうだ…。
ちなみに警備と無線の使い方は長けている創価班は参加禁止。
「華&アンチ創価vs100人創価刑事」
どうですか?やりませんか?(嘘)
私には夢がある。
子どもの頃蹴り上げた缶の感触を忘れられない大人が、本気を出して、大規模にやる缶蹴りをすること。
もう一度、蹴り上げた缶が青空に舞うのを見たい。もう一度、追われる興奮と追う興奮に酔いたい。
……本気で「鉄腕DASH」の刑事に参加したいこの頃。

使えるものは何でも使う

先日の聖教新聞様のトップは、名誉会長が韓国の慶尚南道議会からまたナニかもらったとか、名誉会長は友好の架け橋(で、何したの?)だとかで、また朝から面白くて笑ってしまうのだけれども。
時期が時期だけに、何か意図を感じたりするのだが。
創価学会名誉会長的には「こんな日韓が冷え切った時期にも韓国の議会から表彰される俺様サイコー!コイズミの写真が韓国で焼かれてる時に表彰される俺様サイコー!」ってなところだろうか。
んもう!名誉会長ったら!こんな時に!
国同士の揉め事さえも、利用しているように見えるのは、穿ちすぎ?

とりあえず、韓国が日本と韓国の友好の架け橋として誰かを表彰するならば、名誉会長よりも韓流ブームをしかけた広告代理店やメディア、それに乗って韓国へ足繁く通った恋するおば様方が先であろうと思われる。

で、本日の聖教新聞様の記事は「中国との友好」が云々と大々的に特集。

………。
二日連続では、ちょっとシャレになってませんね、名誉会長。

「韓国と中国と、日本との間に問題があって不穏な空気がある中でも、名誉会長様は両国に支持されているの、だから名誉会長様は偉いの」と、やはりそう言いたいのだろうか。
穿ちすぎではないような気がしてきた。
名誉会長様が偉大だと印象づけるためには、国と国との揉め事さえも利用する。
聖教新聞で表彰だ友好だと言いながら「日本(政府とか総理とか某県議会とか)は韓国や中国の神経を逆撫でしているけれど、我らが名誉会長様は別格なんだよ」と暗にアピールする。
それは、日本に対してだけでなく韓国や中国に対しても馬鹿にしている行為だと思う。
あまりに、やりすぎではないだろうか。

どの国でも同じことだが、外交政治は国の利益とか体面以上に、その国の全国民の生活がかかっている。
外国行って握手してスピーチして褒めてもらって(たくさん寄付して)勲章もらって機関紙トップで報告してエヘヘと笑っているどこぞの誰かさんとは、責任の重さが天と地ほど違うのだ。そんな人(とそのブレーン)が、外交の局面に立つ立場の人間をあざ笑う如く「韓国と中国と、日本との間に問題があって不穏な空気がある中でも、名誉会長様は両国に支持されているの、だから名誉会長様は偉いの」と機関紙使って大々的にアピールすることほど腹立たしいことはない。それは「微妙な時期だから政府に任せて大人しくしてろよ」ということではなく「こんな微妙な時期さえも利用して存在をアピールするなんて何考えてんだよ不謹慎だよ」という腹立たしさ。
加えて、常日頃から創価学会に対して「無理解」な日本を「迫害日本・精神後進国」という言葉で攻撃している学会だから、ここぞとばかりに嫌味をかましているつもりだろう。

「責任を負わないからいいでしょ?出来ることがあるでしょ?」とか、「こんな時期だから民間から友好の大切さをアピールしているんだよ」とか、そんな声も聞こえて来そうだが、このタイミング、記事内容、とてもじゃないがそんな風にはかけらも思えない。
ずっと疑問だったのだが、こういうことは「友好の架け橋」となりうる活動だろうか?
結局、外国行って握手してスピーチして褒めてもらって(たくさん寄付して)勲章もらって聖教新聞で「名誉会長はこんなに偉大です」と結論づけられるための活動である。それが「友好の架け橋」だろうか?
友好とは言うもの、名誉会長のした事は、相手国と日本との外交にも友好にも関係ない。良くなったという話も悪くなったという話も聞かない。
現在、韓国・中国と日本の間に流れる空気がそれを表している。
考えようによっては、こんな時期にあんな記事を掲載することは「韓国と中国と、日本との間に問題があって不穏な空気がある中でも、名誉会長様は両国に支持されているの、だから名誉会長様は偉いの」ではなく、「友好の架け橋だろうが勲章もらおうが顕彰もらおうが支持されていようが、名誉会長には日韓・日中の関係を改善できる力はない」ということをアピールすることになり逆に滑稽であるとも言えるかもしれない。

しかし、創価学会様って、自分たちさえ良ければそれでいいのだろうか。
一連の記事からは「日本とは微妙な関係の国からさえも支持される名誉会長」だけでなく、「自分たちさえ良ければそれでいい」という考えも感じられるのだが。

なんだかねえ。

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話はすっごく変わるが。
フガフガ・ラボさんの「ジョージのブログ」(レッツ検索!)3/22のブログは必見。
いいなあいいなあ、私もやりたいなあ。
名誉会長の写真使って、あんなのやりたいなあ。

イメージは大事

お待たせしました。本日より通常営業再開です。

九州の方、この度の地震、お見舞い申し上げます。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
コンビニの募金箱程度でしか出来ませんが復興のお手伝いをさせていただきたいと思います。
まだ余震も続いておりますので、お気を付けてお過ごしください。
一日も早く日常生活が戻ることを願っております。


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以前。
あるショッピングモールの折込広告を作っていた時のこと。
そのショッピングモールにはイベントスペースがあり、そこで行われるイベントを折込広告で告知していた。
イベントの主催はショッピングモールに限らなかったが、折込広告にはイベント告知枠が用意されており、ショッピングモールの善意で主催団体がその枠にイベント告知ができるようになっていた。
この告知枠には、団体側があらかじめ作ったデザインデータが入ることもあったし、原稿をもらって、制作会社がデザインしたものが入ることもあった。そういう時は、直接主催団体に会うことはなく、ショッピングモールの販促課が原稿を受け取って、折込広告制作時に他の原稿とまとめて制作会社に発注するのである。
そんなある日、そのイベントスペース告知枠用に、ある原稿がやってきた。
一見、展覧会の原稿。しかし、主催は。
ご一緒に!創価?学会?♪
担当営業と二人、原稿を覗き込む。
「…………創価学会ですよ」
営業の声は、なぜかひそひそと小さくなる。
営業は特にアンチというわけではない。
ただ、何かしら良いイメージはないらしい。
何故か腫れ物を触るように小声でヒソヒソと打ち合わせを続ける営業。
一般の人々の反応たるや、こんなものである。

翌日、折込広告の赤字訂正が帰ってきた。
イベントスペース告知枠にあった展覧会告知の「主催:創価学会・後援:●●新聞」の文字にガーーーっと豪快に赤線が引かれ、「トル」の訂正指示。
「主催も、後援も、消してくれって。ショッピングモールの販促課の人が」
営業は相変わらずヒソヒソ声。
「主催も後援も掲載しないんですか?」
「ショッピングモールのイメージがあるからってさ」
…………イメージがあるなら受け付けるなよ、とここで突っ込むわけだが、そんな理由で断れるわけがないのである。そりゃそうだ。
とはいえ、ショッピングモールの販促担当者にも良いイメージはないらしい。
[ちゃんとスペースは貸すし、広告の掲載もするけど、団体名は掲載するのはちょっと抵抗が…、うちにもイメージがあるし、困ったな?。いや、差別するつもりはないんだけどイロイロあるでしょ?団体名掲載することで「え、ここのモールって学会系列?」って思われても困るわけ。そりゃ会場に来る人は分かるだろうけどさ、来た人にだけわかればいいことで、折込広告で大々的に告知することもないじゃん。あー、ほら、創価学会なんて掲載しちゃうとさ、展覧会に興味があっても主催団体を敬遠して来ない人もいるかもしれないし、掲載しないほうが集客が良いかもしれないよ?ね?ね?って来るのはどうせ学会の人が多いから俺の気遣い意味ない?ない?あ、これ気遣いなのよ。いろいろあるのよウチも?俺だけの判断じゃないんだからさ、だからさ、削る。削るよ主催団体。それだけならバランス取れないからさ、後援団体も消しちゃう。いいよね?ね?]
………という葛藤があったかどうかまでは知らないが、まあ、そういう感じらしい。
危うきに近寄らず、無難な策を取りました、そういうことで。
一般の人々の反応たるや、こんなものである。

(で、私は、遠慮無く、ガーーーっと豪快に消させていただきました、「主催:創価学会」。スッキリ)

その営業がその時、以前の会社にいた頃の話をしてくれた。
彼は今の会社に来る前は、あるチェーン店の本店の広報課にいたという。
その本店のフロアの一角にもイベントスペースがあったのだが、知り合いの奥さんという人から、展覧会をしたいのでそこを借りたいという申し出があった。
快く引き受けたが、実はその展覧会の主催は、創価学会。
知り合いの奥さんというのは、おそらく婦人部幹部だったのだろう。
当日、彼は上司に呼ばれ「店舗のイベントスペースで学会のイベントを開催すると、チェーン店そのものが学会系列だと思われて困る。事前に主催団体を確認してから申し出を受けるように」と注意を受けたらしい。
一般の人々の反応たるや、こんなものである。

アンチでもない、一般の人の反応は、「腫れ物に触るように扱う」「正直、扱いに困る」「出来ることなら関わりたくない」「折伏しないなら、選挙の時しつこくしないなら、別にいいけど」といったところではないだろうか。
今回の二つのケースは、客商売のケース。
学会を良く思わない人は多数いることを察していて、学会に関わることで、購買層でもあるそういう人々の足を店から遠ざけることを危惧する経営者側の意図が見える。この場合、「正直、扱いに困る」「出来れば関わりたくない」が本音だろう。
ただ、これは他の宗教にも言えることではあるし、宗教に限らず言えることでもある。その団体が世間にどういうイメージを持たれているかということで対応は違ってくる。
結局はイメージ。客商売はイメージが大事である。
とはいえ客商売でなくとも、一般の人の反応も同様である。
イメージの悪い宗教には近づきたくないのだ。

では、イメージの悪さはどこに派生しているのか。
言わずもがな、学会自身である(散々言われてますね)。なりふり構わず迷惑顧みなかった広宣流布はイコール学会の負のイメージを日本中にまき散らしたとも言える。アンチが悪く言うとか、雑誌やニッケンが悪口三昧とか、そういうことがなくても、どのみち学会自身がイメージを悪くしているわけだから、そりゃ一般の人もイメージ良くは思わない。
創価学会に対する白眼視を「差別だ」と言う言い分もあるが、差別というのは「いわれのないこと」で中傷や誹謗を受けることであって、「いわれのあること」をしてきた学会への世間の反応は差別とは言わないと思う。では、現実に学会から不愉快なことをされてきた人々に対しては、どう表現するのだろうか。邪宗だとか、学会を信仰しないから不幸になったとか、好き放題おっしゃる学会員さんもおられるが、それは他宗教に対する差別とは言わないだろうか?それでも「私達は差別されている、迫害されている」と言えるのだろうか?(幼少時に選択の余地のなく入会させられた2世3世に対しての誹謗中傷は差別と言えるかもしれないが)
「自分達の信仰を悪く言うなよ。でも、他の宗教は悪く言うよ」では全く道理は通らない。
一部の常識外れの学会員の行いで全ての学会員を悪く言うな、という言い分もあるだろう。だが、常識外れな人は一部だろうか?今まで誰も傷つけずに生きてきた人が存在するのだろうか?
学会・非学会関係なく、誰だって意識・無意識にかかわらず、誰かしら傷つけて生きているのだ。私もそうである。
件のEさんだって、普段はごく普通の女性であるだろう。先走りのAさんだって、ごく普通の男性だ。
でも、学会員であるが故に学会内でしか通用しない常識でもって、外部の人間を不愉快にさせている。
だが、この人たちはステレオタイプのように語られる「一部の常識外れな学会員」ではなく「その他の常識ある学会員」のカテゴリに入る種の人々なのだ。
「その他の常識ある学会員」だって「学会内でしか通用しない常識(俗に言う「良かれと思って」「良いものだから」)」で人を傷つけるのである。
イメージの悪さは少数派の「一部の常識外れな学会員」の行動からだけではなく、それ以上に多数派の「その他の常識ある学会員」の行動からも派生していると思う。
口コミにしろネットにしろ、悪い話はあっという間に広まるし、創価学会の悪い部分だけ特出して広まりもする。悪い部分だけが集合しその極端さが「一部の常識外れな学会員」像を作り上げる。
もちろん、極端な学会依存の「一部の常識外れな学会員」の存在は実際にあるだろう。
だが「一部の常識外れな学会員」は「その他の常識ある学会員」の負の部分の集合体でもあるのではないのだろうか。
それでも「人を傷つけるのは一部の常識外れの学会員」と言い切ってその「免罪符」のような言葉の上にあぐらをかける、自分たちの所属する団体全体の問題であるにも関わらず無関係とでも言うような発言が出来るその理由がわからない。

イメージの悪さは修正できるだろうか?
もう、無理だと思うけど。

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人権擁護法案でございますか。人権委員会ですか。
名誉会長擁護法案だなんて揶揄されておりますが。
いま、ちょこちょことネットでいろいろ見ております。
現段階での率直な感想を。
私、フェミですけどね、いらんですよ、こんなのは。
人権というのは守られるべきものなのですが、こういう弾圧的な守り方っていうのは、どうなんでしょうか?逆に足を引っ張るだけだと思います。
「人権」という言葉がオソロシイものになってしまう(おかげさまでもう十分怪しげな言葉になってしまっておりますが・怒)。
近頃の政界の人々は極論というか極端でビックリです。
でもこれ、本当に「人権擁護」が目的なんですか?「人権擁護」を傘にした本当の目的があるんじゃないですか?どなたかに利益が行くのでしょうか?
それでもって、言論弾圧法案でもあるんですね。
嫌なものは嫌だと、言えなくなるわけですか?批判も出来ないわけですね?
名誉会長が大喜びする姿が思い浮かびます。
でもですね、名誉会長。
もしも法案が可決されたら「演説での下品な名誉会長ギャグ」とか「演説や聖教新聞での敵対宗教への酷いヤジ」とか「罵倒座談会」とか出来なくなるんじゃないですかね?
立派に人権侵害ですもんねぇ。イヒヒヒヒヒ。
もしそんな法案が可決されたらば、私、絶対、人権委員とやらになります。
そんでもって、信濃町に突撃します。イヒヒヒヒヒヒヒ。
って、人権委員会とやらに学会の息のかかった人が入ったら無駄ですね。
やっぱ、いらんですよ、こんなのは。
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