年度末で大きな会合が立て続けにあるらしく、どんのスケジュールが不規則になった。
それなのに、どんは「どこに行って何時に帰る予定か」ということを私に伝えるのを忘れる。
そのことは、ブログでも書いたけれど。
昨日もやっぱり、忘れていた。
一人で食事をしながら、ふと、「普通の新婚家庭」というものは、一体どういうものだろうかと考えてみた。
体験したことがないのでわからない。
普通なんてない。そう片づけて、ご飯も片づけた。
一人の食事は食べるというよりは、片づけるに近い。
このところ、私も仕事上での不条理なクライアント(+我が社営業マン)の都合に振り回されており、イライラは募っていた。さらに長期バイトのお気楽2世さんが、かつて学会に苦しめられた先輩デザイナーに向かって「創価学会は悪い宗教じゃないですぅ、普通の宗教ですぅ」と無邪気に言い放ち、人の痛みに鈍感で無神経な声が拍車をかけていた。学会を悪く言う人は大抵学会に傷つけられている。少し考えれば分かるのに、自分の立場をスタンダードに置きたいために言葉で人の心を貫く。そして知らずに、現在進行形で学会のことで悩んでいる私の心を踏みにじる。「知らない」ということは時に暴力だ。未活とはいえ所詮、学会員思考。
でもってトドメは、どんの創価学会様活動。
どんが帰ると間もなく、喧嘩が始まった。話は広がり、創価を巻き込む。
触れないでおこうとしても、そもそもの元凶は学会様。どんなにどんが生活と活動をバランスを取ろうとしても、それを壊すのは学会様。どんは「ごめんね」と言いながら出かけていくが、謝るのはどんじゃないだろう。
喧嘩が始まり、元凶の創価に言及して、どんは学会をかばう。
それでもって、私の頑固で素直でない性格が災いし、ますます大変なことになる。
そんな深夜、1:30。どんの携帯が鳴った。
いわずもがな、学会員。会合の打合せをメールでしていて、電話のほうが早いと、そういうことで。
朝じゃだめなんだそうだ。1:30じゃないとダメなんだそうだ。
大事な学会の会合のためには、深夜に電話してもいいという独自のルールが存在しているらしい。
いつもなら寝ている時間帯だ。きっと着信音に起こされた。
頭に血が上り、電話に出るどんに向かって相手の学会員に届けとばかりに、「ふざけるな!」と叫んだ。遠慮して、声を抑える余裕は、私にはもう残されていなかった。
それが、どんの逆鱗に触れた。
どんだって、いろいろ考えてくれている。実行してくれている。温厚で思慮深く寛大で聡明でユーモアがあり、私には過ぎた男だ。わかっている。わかっているけど、私は、こういう形で浸食してくる創価学会が許せない。
私の心が狭いのだろう。叫んだことも、私が大人げないと分かっている。
なのに、私は、謝れなかった。そして私は醜い自分を責める。
悪いのは私だけか?寛大になりきれない私がいけないのか?
自分を責めながら、自分を正当化しようともしている。
どんに欠点を指摘され責められる。言葉の応酬が始まる。
そして私は混乱し、泣き叫んだ。
こんなことが、信仰か?勤行以外の運営のための雑務で、人の生活を振り回すことが、信仰のすることか?
労働を評価する正当な報酬も発生しない、そんなもののために…いやお金の問題じゃない。
宗教という、形のない、実在するかどうかわからない、明かす手だてもなく、結果の見えないものを捕まえて「真実」だと称する。人が作り出した哲学の一つにすぎないものなのに。
全ての幸いなことを、その「真実」に結びつけて喜び、災いを「真実」を信じる心が足りないと落ち込む。
宇宙や、平和や、科学を「真実」に結びつけ、「真実」を犯す者には攻撃をいとわない。
自分たちとは異なる「真実」を持つ者にも、容赦なく攻撃する。自分たちこそが「唯一無二の真実の継承者である」と叫んで。
そして「真実」が理解できない者を「心が貧しい」と蔑む。
その「真実の存在」を「継続」するために組織を作る。それを運営する。形のないものを生活の中心に据える。そして無関係な人間を巻き込む。
私は理解できない。全く理解できない。理解しようと思わない。唯物主義だとか魔だとか心が貧しいとか、好きに言えばいい。つい先日も、このブログに現れた通りすがりの2世の子どもが好き勝手に罵声を浴びせて去っていった。傍若無人な態度を冷ややかに叱りつけても、また創価学会に疲労させられただけだ。
血が乾かないうちに傷を踏みつけていく 創価学会に、その「真実」とやらのために、愛する男と諍う私の痛みが、わかってたまるか。
私は、どうして結婚したのだろう。一人でも細々と生きて行けたのに。
10代前半からのただ苦しいだけの紆余曲折の時間の果てに、やっと掴んだはずの愛し愛されるという暖かな幸せが揺らぐ。
いや、私は幸せなはずだ。なのに欠けたままの心は、埋まらないまま。
また、どんが帰宅時間を伝え忘れていた。言ったつもりになっていたらしい。かけた電話の向こうで苛立った声がした。
今日も一人、ご飯を片づける。今日はもう、一人分の食事。
サッカーは日本が勝ったのに、興奮は小さい。
友達が勝利の雄叫びメールを送ってきた。気づかれてはならない。気力を振り絞って、一緒に喜ばなければ。
携帯を掴む。文字だけで無理矢理喜ぶ。
誰も知らない。私の痛みは、誰にも言わない。
私がどこの誰か知らない、ネットの世界に吐き出す。苦しいと叫ぶ。
そうして明日、私はまた社会に出ていく。
仕事をし、面白いことを言って後輩を笑わせ、時々息を抜いて、また仕事に励み、残業をして、家に帰る。
こうして日々は、続いていく。
活動が落ち着けば、またどんと上手くやっていけるだろう。
何も解決されていないまま。
創価学会がある限り、解決はしないだろうけれど。
傷つけるなら、傷つければいい。振り回したいなら、好きなだけ振り回してみろ。
私だけじゃない多くの人の傷を痛みを、そうして踏みにじっていけばいい。
でも私がいつか死ぬように、創価学会もいつかなくなる。
永遠など、存在しない。
栄えたものは、いつか滅びる。
形がないものを、形にしたからには、絶対に逃げられない。
それは地球の歴史の中で、一つの事柄が生まれ栄え滅ぶを繰り返すことで証明した、揺るがない本物の「真実」。
-----------
これだけじゃ、あれなんで。
嬉しかったことを記しておく。
急遽入った仕事の打合せで広告代理店の担当者さんと会った。
本来、営業とセットで動くのだが、我が社の営業が丸投げしてくるので、実質私が切り盛りする仕事である。
さほど大きい物件ではないから、一人でも問題ない。(むしろ営業が絡むことの方が恐ろしい…)
急遽入って短納期で閉口してしまうのだが、1年以上やっているので慣れてしまった。(というか多くの仕事が短納期なので今更…)
同時進行でいくつもの他の物件が進むなか、やりくりして対応している。
今回も急遽で、しかも電話とメールとFAXのやりとりで終わるいつもの物件とは違う新規物件。
初顔合わせ以来のお呼び出しである。
縁遠い巨大なビルの商談ルームの中で何故か落ち着かない。見渡せばビジネススーツの男性ばかりが商談している。落ち着かない原因は場違いな空気を発する私自身だった……。(どんとの喧嘩の名残で目も少し腫れてるし)
打合せが終わり、担当者さんが私に頭を下げた。
「このクライアントはいつも急で、本当に申し訳ないんですが、あなたのお陰で本当に助かっています。頼りにしています」
晴れ晴れとした気持ちで、外に出た。
会社でもかけられることのない言葉が、嬉しかった。
青い空と、爽やかな春風が、報われた私を包んだ。
大丈夫。やっていける。
それなのに、どんは「どこに行って何時に帰る予定か」ということを私に伝えるのを忘れる。
そのことは、ブログでも書いたけれど。
昨日もやっぱり、忘れていた。
一人で食事をしながら、ふと、「普通の新婚家庭」というものは、一体どういうものだろうかと考えてみた。
体験したことがないのでわからない。
普通なんてない。そう片づけて、ご飯も片づけた。
一人の食事は食べるというよりは、片づけるに近い。
このところ、私も仕事上での不条理なクライアント(+我が社営業マン)の都合に振り回されており、イライラは募っていた。さらに長期バイトのお気楽2世さんが、かつて学会に苦しめられた先輩デザイナーに向かって「創価学会は悪い宗教じゃないですぅ、普通の宗教ですぅ」と無邪気に言い放ち、人の痛みに鈍感で無神経な声が拍車をかけていた。学会を悪く言う人は大抵学会に傷つけられている。少し考えれば分かるのに、自分の立場をスタンダードに置きたいために言葉で人の心を貫く。そして知らずに、現在進行形で学会のことで悩んでいる私の心を踏みにじる。「知らない」ということは時に暴力だ。未活とはいえ所詮、学会員思考。
でもってトドメは、どんの創価学会様活動。
どんが帰ると間もなく、喧嘩が始まった。話は広がり、創価を巻き込む。
触れないでおこうとしても、そもそもの元凶は学会様。どんなにどんが生活と活動をバランスを取ろうとしても、それを壊すのは学会様。どんは「ごめんね」と言いながら出かけていくが、謝るのはどんじゃないだろう。
喧嘩が始まり、元凶の創価に言及して、どんは学会をかばう。
それでもって、私の頑固で素直でない性格が災いし、ますます大変なことになる。
そんな深夜、1:30。どんの携帯が鳴った。
いわずもがな、学会員。会合の打合せをメールでしていて、電話のほうが早いと、そういうことで。
朝じゃだめなんだそうだ。1:30じゃないとダメなんだそうだ。
大事な学会の会合のためには、深夜に電話してもいいという独自のルールが存在しているらしい。
いつもなら寝ている時間帯だ。きっと着信音に起こされた。
頭に血が上り、電話に出るどんに向かって相手の学会員に届けとばかりに、「ふざけるな!」と叫んだ。遠慮して、声を抑える余裕は、私にはもう残されていなかった。
それが、どんの逆鱗に触れた。
どんだって、いろいろ考えてくれている。実行してくれている。温厚で思慮深く寛大で聡明でユーモアがあり、私には過ぎた男だ。わかっている。わかっているけど、私は、こういう形で浸食してくる創価学会が許せない。
私の心が狭いのだろう。叫んだことも、私が大人げないと分かっている。
なのに、私は、謝れなかった。そして私は醜い自分を責める。
悪いのは私だけか?寛大になりきれない私がいけないのか?
自分を責めながら、自分を正当化しようともしている。
どんに欠点を指摘され責められる。言葉の応酬が始まる。
そして私は混乱し、泣き叫んだ。
こんなことが、信仰か?勤行以外の運営のための雑務で、人の生活を振り回すことが、信仰のすることか?
労働を評価する正当な報酬も発生しない、そんなもののために…いやお金の問題じゃない。
宗教という、形のない、実在するかどうかわからない、明かす手だてもなく、結果の見えないものを捕まえて「真実」だと称する。人が作り出した哲学の一つにすぎないものなのに。
全ての幸いなことを、その「真実」に結びつけて喜び、災いを「真実」を信じる心が足りないと落ち込む。
宇宙や、平和や、科学を「真実」に結びつけ、「真実」を犯す者には攻撃をいとわない。
自分たちとは異なる「真実」を持つ者にも、容赦なく攻撃する。自分たちこそが「唯一無二の真実の継承者である」と叫んで。
そして「真実」が理解できない者を「心が貧しい」と蔑む。
その「真実の存在」を「継続」するために組織を作る。それを運営する。形のないものを生活の中心に据える。そして無関係な人間を巻き込む。
私は理解できない。全く理解できない。理解しようと思わない。唯物主義だとか魔だとか心が貧しいとか、好きに言えばいい。つい先日も、このブログに現れた通りすがりの2世の子どもが好き勝手に罵声を浴びせて去っていった。傍若無人な態度を冷ややかに叱りつけても、また創価学会に疲労させられただけだ。
血が乾かないうちに傷を踏みつけていく 創価学会に、その「真実」とやらのために、愛する男と諍う私の痛みが、わかってたまるか。
私は、どうして結婚したのだろう。一人でも細々と生きて行けたのに。
10代前半からのただ苦しいだけの紆余曲折の時間の果てに、やっと掴んだはずの愛し愛されるという暖かな幸せが揺らぐ。
いや、私は幸せなはずだ。なのに欠けたままの心は、埋まらないまま。
また、どんが帰宅時間を伝え忘れていた。言ったつもりになっていたらしい。かけた電話の向こうで苛立った声がした。
今日も一人、ご飯を片づける。今日はもう、一人分の食事。
サッカーは日本が勝ったのに、興奮は小さい。
友達が勝利の雄叫びメールを送ってきた。気づかれてはならない。気力を振り絞って、一緒に喜ばなければ。
携帯を掴む。文字だけで無理矢理喜ぶ。
誰も知らない。私の痛みは、誰にも言わない。
私がどこの誰か知らない、ネットの世界に吐き出す。苦しいと叫ぶ。
そうして明日、私はまた社会に出ていく。
仕事をし、面白いことを言って後輩を笑わせ、時々息を抜いて、また仕事に励み、残業をして、家に帰る。
こうして日々は、続いていく。
活動が落ち着けば、またどんと上手くやっていけるだろう。
何も解決されていないまま。
創価学会がある限り、解決はしないだろうけれど。
傷つけるなら、傷つければいい。振り回したいなら、好きなだけ振り回してみろ。
私だけじゃない多くの人の傷を痛みを、そうして踏みにじっていけばいい。
でも私がいつか死ぬように、創価学会もいつかなくなる。
永遠など、存在しない。
栄えたものは、いつか滅びる。
形がないものを、形にしたからには、絶対に逃げられない。
それは地球の歴史の中で、一つの事柄が生まれ栄え滅ぶを繰り返すことで証明した、揺るがない本物の「真実」。
-----------
これだけじゃ、あれなんで。
嬉しかったことを記しておく。
急遽入った仕事の打合せで広告代理店の担当者さんと会った。
本来、営業とセットで動くのだが、我が社の営業が丸投げしてくるので、実質私が切り盛りする仕事である。
さほど大きい物件ではないから、一人でも問題ない。(むしろ営業が絡むことの方が恐ろしい…)
急遽入って短納期で閉口してしまうのだが、1年以上やっているので慣れてしまった。(というか多くの仕事が短納期なので今更…)
同時進行でいくつもの他の物件が進むなか、やりくりして対応している。
今回も急遽で、しかも電話とメールとFAXのやりとりで終わるいつもの物件とは違う新規物件。
初顔合わせ以来のお呼び出しである。
縁遠い巨大なビルの商談ルームの中で何故か落ち着かない。見渡せばビジネススーツの男性ばかりが商談している。落ち着かない原因は場違いな空気を発する私自身だった……。(どんとの喧嘩の名残で目も少し腫れてるし)
打合せが終わり、担当者さんが私に頭を下げた。
「このクライアントはいつも急で、本当に申し訳ないんですが、あなたのお陰で本当に助かっています。頼りにしています」
晴れ晴れとした気持ちで、外に出た。
会社でもかけられることのない言葉が、嬉しかった。
青い空と、爽やかな春風が、報われた私を包んだ。
大丈夫。やっていける。