レンタルビデオ屋で借りて久しぶりに映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を見た。
オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝を映画化したものだ。
映画での後半は、まさにチベットに中国が侵攻して来ようとする様が描かれている。
多くの人がそうであったと思うが、私もまたチベットに目を向けることとなるきっかけとなった映画だ。
ダライ・ラマ法王の話を聞ける機会があるのならと、わざわざ広島まで行ったのもやはり、この映画を見ていたからこそのことだろうと思う。
「近代史の出来事の当事者の話を聞いてみたい」という知的欲求を満たしたいがための単純な衝動は、結果として貴重な体験へと導いてくれた。
「知りたい」という欲求は、生きる上での指針となるのだろうと思う。

映画は学生時代に劇場で見て以来だから、もう結構な時間が経っている。
再びこの映画を見ようと思ったのは、現在のチベットでの状況も理由だが、何より、どんが「見たことない」と言ったからである。
この映画が公開された時、そして割と近年まで、どんはこの映画の名前しか知らなかったという。
その時期は「バリ活学会員人生」と被っている。
仕事と活動で帰宅は深夜。
ニュースも終わった時間帯で放送しているテレビ番組は通信販売の類ばかり。
新聞も一般紙くらいとっていれば映画紹介コーナーで映画の内容も目に入るだろうが、聖教新聞一紙のみ。
それすらも読む時間も少なく、会合で必要な記事を読むのが精一杯だったと言う。
例え聖教新聞に映画紹介コーナーがあり、この映画が紹介されていたとしても、どんの目に届いたかどうかさえ難しかったようだ。
完全に世間の情報から隔離した状態で活動をしていたと、当時を振り返ってどんは言う。
映画は単なる一例で、当時、世間を賑わせていた様々な情報に疎かったようだ。
これはどんが特殊なケースではないだろう。
活動に追われて世間の情報に疎くなっていくことは、よくある話であるらしい。
また活動していなくても聖教新聞一紙で満足だと思っていれば、それで得る情報も制限される場合もある。
平和や人権について語りながら、世界の紛争や人権問題などの知識が伴っていない学会員がいる背景はやはり、学会ならではの光景があるのだろう(言うまでも無いが、全ての学会員がそうだとは思わない)。

先日の記事で紹介した2ちゃんねる創価・公明板の、チベットに関して立てられたいくつかのスレッドで、「ダライ某は前近代的で封建的な専制君主なのに」「チベットをダシにして創価学会を中傷するだけがミエミエ」というようなレスを見かけた(http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1205806672の670と692など)。
そのようなレスの根底には「チベットの歴史と中国との関係を『知らない』」「中国政府がチベットに何をしてきたのかを『知らない』」という情報の欠落があるように思う(勿論、いろんな意見があって良いとは思うが、せめてレスする前にネットで調べるとかしないのだろうか。ブログ記事をひとつ書くのに、いろいろ考えて調べるなどの労力を使う私からしたら、その自信が信じられない)。
単純な発想は思考停止しか招かないが、もし何が起こったかを知っていればそういう次元の問題ではないと分かるはずだからだ。
今回のことを「チベットの歴史と中国との関係を『知る』」ことと捉え、学会からのお仕着せではない平和や人権について自発的に考えるきっかけにする、それで良いと思うのだが。
幸いにもこの国ではチベットに関する様々な立場・異なる視点からの情報を、書籍でもネットでも安易に手に入れることが出来る。
私には無い、「熱心な信仰者」の立場で「知る」ということは、おそらく私とは違った世界が見えてくるのではないだろうか。
無論、チベット弾圧のことで怒ったり疑問を持つ学会員もいらっしゃるようだ。
そういう感情を抱く人はやはり「知りたい」と思うことの重要性を「知っている」人だと思う。

日本は情報が過分に行き交う。
メディアリテラシーが必要だということが、贅沢だとも言えるのかもしれないほどに。
だが世間の出来事に積極的に興味を持たなければ、情報を得ることはなくなる。
何かに追われるように忙しくしていれば、努めて時間を割いて情報を得ることも難しくなる。
もちろん、学会に限ったことではない。
「知らない」よりも「知りたい」「知っている」のほうが、人間として深みが増すのではと思う。
私も至らない人間だが、「知りたい」という欲求を大事にし、「知っている人」になることを目指し続けたい。

最後に、映画を見たどんの感想は「この映画は見たほうが良い!」。
映画は2時間と少しで終わるが、実際はこの後も映画で描かれた以上に悲惨な出来事が起こっている。