小説を読んでいたら、どんが部屋に入ってきた。
「創価学会は、共産党とよく似ている」
突然の私の問いかけに、どんはワハハと笑った。
「そうなんだよね。幹部にも共産党出身者がいるとか聞くしね」
学会の人材育成を「洗脳」とするなら、共産圏の一党独裁の国でやっていたそれとも似ているように思う。
「折伏は、オルグか」
「ははは」
どんはさらに笑った。
この頃のどんは学会を庇うことさえしない。
どんは物見櫓に登って周囲を俯瞰で見ているような感じさえする(共産党と似ているということは個人の客観的主観によるものだから庇うような案件でもないが)。
感受性が豊かで周囲から影響を受けやすい一面を持つこの男の、また別の一面はこのように俯瞰で周囲を見ることだ。
勉強家で聡明などんが、どうして学会に染まったのか、同時に染まりきらなかったのか、彼の性格がそれを表している。
「本当は創価学会と共産党は裏で手を結んで出来レースでもしてんじゃないの」
「それはないんじゃない?昔、松本清張の仲介でそういうことはあったらしいけど」
「なんで松本清張なの」
「あの人、共産党支持者だから」
「………」
有名な話なのだろうが、あまり作家の思想信条を聞く気にはなれない。
自分の中の作品観を大事にしておきたいものだ。
話題を戻す。
「日蓮正宗との抗争は、いわば内ゲバというところで」
「かなり大雑把に言えばね。…で、何、内ゲバとかオルグとか。華の年代には似つかわしくない」
私は読んでいた本を掲げて見せた。
「『サウスバウンド』。主人公が小学生男子で、お父さんが元過激派で」
説明しようとすると、どんが眉を顰めた。
彼が多感だった80年代に受けた「教育」の反動で、彼はその手の類のものを嫌う。
過激派だろうが左翼だろうが、その細かい分類の特性を把握した上で、嫌悪感を示す。
やたらそれらの情報に詳しい癖に、感情的に反発するのだ。
だが、過去に受けた教育の反動でどんが嫌うそれらの主義主張が、創価学会には過分にある。
本来、公明党は自民党ではなく社民や共産と連立野党を組んでいたほうが良いのではと思うくらい。
ここにもまた、どんが学会に染まりきらない理由がある。
「面白いのに」
どんは表情を戻すと、飄々とした笑顔を残して部屋を出ていってしまった。

どん個人の主張と、公明党や創価学会の主張は大きく異なっている部分がある。
ただそれはどんに限った話ではないだろう。
宗教と政治は違う。宗教が同じでも個々の政治思想は違って当たり前なのだ。本来は。
それを政党を作って、学会員だから党の主張に賛成して応援しなさいというのも、おかしな話だ。
宗教とは別の所で学会員の支持政党が違って当然であるにも関わらず。
考えることを奪われるというのは、そういうことなのか。

ところでこれを夫婦の会話としていいのだろうか。
折伏とかオルグとか内ゲバとか新聞啓蒙とか、あまりに色が無さ過ぎる。
まあ、こんな会話ばかりではないし、これはこれで今まで上手くやってきたのだから良しとする。
小説に向き直ろうとして、ふと学生時代を思いだした。
六畳間の下宿のドアを開けると、同級生が立っていた。
同年代くらいの、見知らぬ男女を従えて。
「実は共産党の」
彼女が説明するところによると、このグループは共産党の若手組織だということらしい。
要は仲間に入りませんかと、そういうことで。
私を仲間に誘うなんて目の付け所が悪いんじゃないかと思ったのだが、暇だったので立ったまま話を聞いてみる。
説明したのはその中の男性だった。
内容は覚えていない。
ただ、緊張でもしているのか話し方はぎこちなく、何度も言葉に詰まっていたことを覚えている。
その話を受けての、私の返答も。
「群れるの、嫌なんで」
今思えば青臭い返答ではある。なんだその斜に構えた返答は生意気だと若き自分の頬を捻ってやりたい。
だがやはり、美意識の大いなる相違は、越えられないのだ。

後にどんと付き合うことで、間近で創価学会を観察する羽目になった時も、美意識が理解することを拒否し、同じ感想を抱いた。
どんが完全に学会に染まりきらなかったように、私にも学会に全く共感できない資質がある。