年賀状の束の中の、新年らしからぬハガキが二枚。
外国の旅先で求めたとおぼしき絵ハガキ二枚に渡って、学生時代の友達の近況が綴られていた。
数ヶ月海外に居て、そこで陶芸を学んでいたこと。
帰国してまた働きながら、工房を開いたこと。
絵ハガキの空白部分にびっしりと、彼女の几帳面な文字が並ぶ。
湿っぽい陶芸室で粘土を練っていた彼女の、直向きな瞳を思い出した。
芸術を学びながらも、卒業した同窓生の多くは結局、普通の職を得た。
学生時代に学んだことを今でも続けているのは、私の思い当たる限り数人だ。
そして私は。
カンバスがMacのモニタに変わり、絵筆をマウスに持ち替え、芸術ではなく商業広告の世界にいる。
遠からず、しかし近いわけではない。
自分の表現したいもの、ではなく。
人が表現したいものの意図を汲んで広告を作るのが私の仕事だ。
だが、学生時代に描いた未来に居るわけではない。

私には画学生だった時代がある。
油絵の具の匂いの充満する教室が、私の世界だった。
木炭に手を汚しながら目の粗い紙に線や面を重ねていく。
木炭を消すために持参したはずの食パンを、時々口に放り込む。
高いとはいえ油絵の具をケチるわけにもいかず、バイト代で化粧品を買うよりも油絵の具を買った。
時々、コンサートで息抜きをした。チケット代を惜しまないのは今と変わらない。
鬱陶しい人付き合いを中途半端に拒絶しながら、絵筆を走らせた。
絵が好きで、そこに居た。
今にして思えば、「芸術」を表現できるほど、自分の中に強い力があったわけではないように思う。
一応「画家になりたい」と答えていたが、なれるとは心のどこかで思っていなかった。
単に凡人で終わる一生に抗いたかっただけかもしれない。
若さにありがちな思考だ。

そんな悶々とした日々を共に過ごしたのが、その前述の彼女だ。
彼女は私と同じ年だが一年遅れて入学してきて、私の数少ない友人のひとりとなった。
一度は違う道に進んだが、諦めきれずにという、そういう理由だったように思う。
逆にそういう理由で、同学年だが年上、という友人もいた。
そういう理由で入ってくるわけだから、熱意が俄然違う。
そこで彼女は陶芸と出会い、陶芸のコースに進んだ。
同学年だが年上な友人も同様に熱意が違うわけで、今も彼らは絵を職業としている。
そして、彼女も卒業しても陶芸を続けた。
まず焼き物で有名な土地で学び、それから郷里に帰った彼女は働いて陶芸窯を買った。
一番続けにくく手間のかかる類のものである。
それを今現在も続けるということは、海外にも学びに出るということは、学生時代の熱意は衰えるどころか燃えさかっているということだ。
彼女は陶芸が好きなのだ。

私は彼女が羨ましかった。
同じように悩みながらも、心に芯が一本通った、そういう女性だった。
私は自分に甘かったが、彼女は自分に厳しかった。
同じ年なのに、大人に思えた。
私は、教室で時間を過ごす日々の中で、絵を生業とする事には向かないと薄々と気付いていた。
生業とする覚悟も熱意も無かったと、今なら言える。
私にあるのはふにゃふにゃとした折れそうな芯。
卒業したらどうやって食べていこう。
それでもここまで来て普通に就職するのは嫌だった。無駄にプライドだけは高い。
何のために親は、私の我が儘を聞き、高い学費を出してくれたのか。
モラトリアムと片づけるにはあまりにも申し訳がない。
だが時間は刻々と過ぎていく。

ただ、私に出来たことがある。
よく友人と一緒にイベントなどで似顔絵描きブースを出し、小遣い稼ぎをしたのだが、友人達が「自分らしい」画風で描いていたのに対し、私は自分の画風を封じ「相手が喜びそうな」画風で描いた。
生業には向かないと分かっていながら未練たらたらの私には、友人達の画風が羨ましかったのだが、私の描いたもののほうが客には評判は良く、また私もそれを狙っていなかったと言えば嘘になる。
私が「自分の表現したいこと」よりも「相手がそれを見てどう思うか」ということを無意識に選んでいたと気付いたのは、実はごく最近のことだ。
当時はそれが分からなかった。
分からないなりに、私は学生時代最後の一年で、絵筆をマウスに持ち替えた。
すっぱり「芸術」に別れを告げ、完全に「就職」だけを考えてデザイン教室の扉を叩いた。
卒業したら、自分で稼ぐよう、親から通達されている。当然のことである。
何もしていないのに、まるで何かを諦めたような気分を一人前に感じてみながら、それでも親の援助でここに入ったことそのものを無駄にしないためにしたことだが、それがその後の私の人生を決めた。
基礎とMacの操作技術だけをさらって卒業。
仕事の中で学び、仕事に生かすために社会にある様々な物を見て聞いた。
会社が変わることはあったが、画家ではなく「デザイナー」となった私は今日もマウスを動かしながら、「相手がそれを見てどう思うか」を念頭に仕事をしている。
結果的に天職だと思えるようになった。
この立ち位置が過労働でワーキングプアまっしぐらな業界なのは、政界と経済界に小一時間ほど問いつめたいわけだが、それでも夫婦二人で暮らしていけている。
ふにゃふにゃだった芯は、働く中で揉まれて、プレッシャーと責任でそれ相応の太さと硬さになった。
凡人でいることに抗う気持ちは、もしかしたらまだあるのかもしれない。
それでも、歯車の名も無き部品のひとつとして社会を動かす一人となったことに、誇りを持っている。

やりたいことがあった彼女と、そうではなかった私だが、とりあえずそれぞれなんとかなっている。
今現在、手間のかかる仕事の分厚い資料を前に頭を悩ませている最中でもさほど迷いのない自分がいる。
この業界で、請われ続ける人間でいることが私の目指すところ。
彼女は、これからどう生きるのだろう。
結婚した時、彼女から夫婦茶碗をもらった。
彼女が作ったものではなく、彼女の師匠が作ったもの。
「私が作ったものをあげるには、まだまだ」と手紙に書いてあった。
自分に厳しい彼女の目指す道は険しそうだが、彼女は成しえる人だと思う。
卒業してから、住む土地は遠く離れている彼女には一度も会っていない。
旅行がてら会いにいくのも、良いかもしれない。
彼女のしていることを見て聞いて、昔のように自分の駄目な部分に照らし合わせて落ち込むのではなく、自分を奮い立たせる刺激に出来るほどには私は大人になっているはずだ。

…………多分。