お待たせ!忙しいですけど、元気です。
って待たせたわりには身のある話でもないような。

導入はまったく関係ない話。
スーパーで買い物をするとき、私は買い物バッグを持参する。
てなわけで、レジで「買い物バッグ持ってますカード」をカゴに入れるのだが、あるスーパーのある店員さんに当たると、必ずスーパーのビニール袋を入れられる。
そういう出来事があってから、何度かその店員さんのいるレジに並んだが、必ず、入れられる。
並んだらその都度入れられる。
ちゃんとカードをカゴに入れているのだが、店員さんはどうやら、商品をレジに通す際、カードをカゴから出したその瞬間にカードの存在を忘れてしまうらしい。
おそらくは習慣で、考えるより先に手が動いているのだろう。
レジという狭いスペースで身体がシステマチックにきっちり動く。それはそれで優秀なのだが、応用も利いてもらわないとこまる。
私はその度に袋を返しているのだが、毎回毎回続くと、苛立ってくる。
今日は、カゴの中に自分のお買い物バッグを目立つように入れてみたのだが、「000円になります」と言いながら。店員さんの手は既にビニール袋の束に届いていた。
その瞬間、カゴをサッと避ける私。ハッと気づく店員。
だが、気づいた顔をしたと思ったのは私だけで、店員は言ったのだ。
「ビニール袋は、よろしいですか?」

私は次も、この店員の待つレジに並ぶ。
店員が買い物バッグ持ってますカードの存在を思い出すのが先か、
私がキレて、「カードを入れたじゃないですか、何回目ですか?」とクレーマーと化すのが先か。

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広いインターネットの片隅に、生活の中で受けた創価被害について愚痴ったり相談しあう場所がある。
メジャーどころではないため、ゆるゆるまったりと荒れることなくレスは続いていく。
が、必ずどこにでも登場する学会員。
そこにも華々しく登場し、「私たちを批判するなんて!」と、斜め四十五度の法論(というか放論)を展開した。(創価の評判を落としたいアンチの仕業という可能性もないわけではないが)
しかし、噛み合わない。そのレスにいる誰とも噛み合わない。
そりゃそうである。折伏がウザイという愚痴や、新聞勧誘をどうしたらしこり無く断れるか、ご近所付き合いしたら創価派閥があって誘われた、そういう生活の中の困った創価な話の中に、「日蓮は?」「平和は?」「この信仰は?」。
住人達が冷ややかに言う。
「そういうの、どうでも良いから、迷惑行為を辞めてよ。あなたの信心は守られてるんだから、こちらの信心しない自由を守ってよ」
しかし、それにはレスを返さない。返せないなら書き込まなければいいのに。見当違いに学会擁護をして去っていく。ついでに人の傷跡も天然ぽく踏んでいく。
挙げ句、住人達が体験した創価の被害話をすると、「ありえない、作り話!」。
一人の人間がやっていることなのか、入れ替わり立ち替わりいろんな人がいるのか、どちらにしてもタチが悪すぎる。
考えることを放棄しているのだろうか。他人の痛みにそこまで鈍感にいられるのだろうか。
究極を言えば、「好きに信仰すれば?でも人に迷惑をかけないで」。それが多くの人々の主張なのだ。
だが、学会はそういう団体ではない。自分が良いと思ったものはとことん広める広宣流布。
この信心は素晴らしいのだから、相手が判ってくれるまで勧めたらいつか受け入れて感謝してくれるはず。新聞の体験発表にも良く出てくる話でもある。
「好きに信仰するよ、でもあなたもこの信仰をして!」これが主張なような気がする。
中には開き直った学会員もいた。創価ルールがそうだから、それを押し通すつもりのようだった。
信条の自由は、法によって守られている。
だが、自分の権利を主張するのなら、当然、それと同じ権利が他人にもあることを守らなければならない。
与えられる権利は貪り、他人の権利は認めない。
度が過ぎて嫌われたら嫉妬日本、信仰を持たないダメ日本人と逆ギレ。
迫害されているわけでもないのに、迫害日本と被害妄想。

何かに似ていないか?

反抗期の子どもだ。
親から与えられるものは貪り、他人にもそれがあることを認めたくもなく、叱られると逆ギレて挙げ句にひねくれて被害妄想。
その反抗期の子どもは、彼らには優しく親には厳しい親戚の伯父伯母や祖父母(政党)が後ろに控えていたりして。
そして国家権力からの制裁や本当の意味での迫害をされることが決してないことを判っていてる。
それは日本を相手にした、壮大なスケールの反抗期の子ども。

反抗期の子どものような見当違いの反論を軽く交わしつつからかいつつ、住人達はゆっくり話を進めていく。
深刻な相談には真剣に答えアドバイスし、身内に学会員がいる人の複雑な愚痴を聞き(配偶者は信仰を押しつけないのに、姑舅や親族が家庭内に踏み入って折伏しようとして困るという話が多い…)、過去に遭遇した迷惑体験話には同情し。
妄信学会員の暴走が、学会全体の評価を下げる。一個人のことであって学会員全体で捕らえることは良くないということは判っている。
だが、そういう人間を育てる土壌が学会にあることも、暴走を止める手だてもないことも、改善される見込みはないだろうということも、全てが妄信学会員のせいではなく、また彼らだけに背負わせて解決する問題ではないことも判っている。
そして改めて思うのだ。
創価学会、ますます嫌い。