↑その1からの続き

率直な感想として「文化祭」のようだと思った。
ひとつの目的に向かい(クラスで出店やイベント開催、大抵クラス対抗で文化祭最終日に表彰されたりする)、手作りで準備し(放課後の準備)、他の動向を伺い(隣のクラスが気になる)、一致団結し(アタシ達が優勝よ!)、時に遠出したり(休日待ち合わせて買い出し。彼の私服にドキ!)、電話したり(アタシ達のクラスの出し物に来てね)。
社会人になれば、そういう短期集中でボランティアで目的のあるイベント事に関わる機会は減る。
と、郷愁に思いを馳せている場合ではなく。
盛り上がり、高揚感、そういったものが、どこか学生時代の文化祭じみているのは、地元の選挙でバタバタしていたどんを横目で見た感想である。
が、その文化祭は、地域や国の行方を大きく左右する。
ノリが文化祭に見えても、影響力や凄まじい。

どんの地域でも、ほぼ同じだそうだ。
基本的に地区同士の過剰な競争意識はないとはいうが、些細なきっかけでF票取りの競争が激化することも大なり小なりあるらしい。
どんの場合は、東京の知り合いで公明党候補者の立つ区に住んでいるのは先日触れた学生時代の友人のみで、その方への投依頼電話で終わったようだ。仕事が暇であるなら東京への依頼組に同行したかもしれないとのこと。
どうしても行きたいなら、私の屍を越えて行け。あ、行かないんだったね。
東京への依頼だが、家族同伴で家族旅行がてら行く学会員さんもいるらしい。そんな家族旅行は嫌だ。

文化祭のようだ、とは言いつつも、精神的負担は文化祭などより遙かに高い。
全く疑問を持たない人であれば、負担さえも自分のステージとやらを上げる糧になるのだろうが、気づいてしまった人であれば、精神的負担は倍に増すだろう。
政教分離、というのならば。
それは個人の学会員にあってもしかるべきである。
支持したい政党と、信仰したい宗教は、別でも良いはずだ。
公明党の党の指針は、日蓮の教えとは別なはずである。
切り離して考えて、それでも尚、公明党の政策を知り、共感し支持したいと思う人がいるのなら、私は大いに結構なことだと思う。
がしかし、明確理由もなく、支持母体だからとか、創価学会員だからとか、選挙運動が自分のステージを上げるとか、幸せになれるとか、そういうアバウトな理由であるなら、いかがなものかと思う。
そんなのは個人の勝手のレベルの話かもしれないが、実は個人の勝手ではない。
政治は国民全体の問題なのだ。自分のステージがあがるとか、そんな宗教的かつ個人的な理由で左右されたくはない。

正直なところ、どんと出会う以前に何度か公明党支持者(=創価学会員)からの電話を受けているが、明確な支持理由を説明されたことはない。彼ら彼女らを通して、公明党の政策が何一つ見えてこない。
どんと出会ってから、公明党の政策を熱く語るので、ようやく「福祉の党でございます」というのが見えてきたほどである。
そりゃ、電話受けたときに聞けばいいじゃんっていう話かもしれないが、それは違う。
お願いするんだったら、そっちが支持理由を推薦理由を説明しろよ。
そういえば、かの二世さん(久しぶりの登場!)に至っては「(学会員の)親が投票依頼のお願いをしろって五月蠅く言うから」が投票依頼の理由である。
とっても分かりやすい理由をありがとうございます。
選挙、舐めすぎです。ちなみに二世君(超久しぶりの登場!)のほうは選挙期間中に遊んでも、依頼さえもしてこない。そもそも期間中に遊べるっていうことは、選挙運動などしていないと言うことで。非常に潔い。

自民との連立政権の時やPKOの時などに、公明党支援を離反した学会員さんが多く出たらしい。イラク戦争のこともある。国の政治に関わることで党の指針を変えざるを得ない状況の時は、離反する人はあるだろう。
いっそ与党なんて辞めちゃいなよ
さておき。そのことは、信仰と選挙と何ら関係ないことを表しているような気がする。それはそれ、これはこれと割り切って考えているから、公明党の選挙運動を支援しないという決断が出来る人がいるということだ。創価学会がもし離反した人間を責めるならば、その人は創価学会からも離反するかもしれない。
「創価学会員だから公明党を支持する」という理由は、ない。
本来、それは当たり前の話ではないのだ。政治は政治、信仰は信仰なのである。到達するところは人々の幸せだという解釈かもしれないが、政治は綺麗事では終わらない。人々の幸せだけでなく、外交問題など国の行方さえもかかっている。
選挙の投票率が低迷を続ける。その中で、イケイケどんどん文化祭ノリの熱に浮かされた組織票が動く。
それがとても危険だ。
公明党の候補者に政治への情熱や意欲はないとは思わない。
本来は大事な義務であり候補者を選ぶ自由を擁する権利である票を、熱に浮かされ、属する団体のままに動かすことが、問題だと思う。
よく、学会員さんは「勝たせてやった」という言い方をする。
自分の政策を理解して応援してもらうのなら「勝たせてやった」と上から言われても本望だろう。
確かに、国民が議員にヘイコラするのはおかしいと思う。ある意味「勝たせてやった」で丁度良いかもしれない。
だが、政策は後回しイケイケどんどん福運のために応援されて「勝たせてやった」と言われて嬉しいものだろうか?

偏見かもしれないが、一部の宗教団体と連なる議員が続々誕生することに懸念がある。また、その組織票に対抗するために、他の党なども組織力を当て込んで他の宗教団体に支援を要請している傾向にある。
ただ、組織票に頼らざるを得ない、また組織力を取り込んだものが優位に立つ選挙の現状を作ったのは、他でもない、私たち選挙権を持つ人々である。

選挙を戦いと言うならば、それは組織力と個人の戦いではないかと思う。
個人は負け続けである。
が、そろそろ、なんの連係もない、個人一人一人の考えと選択と政治参加への意識が、組織票で勝たせてもらうはずの候補者を、落選に引きずり下ろしても良い頃ではないだろうか。

政治を憂うのなら、日々の生活に不満があるなら、選挙に行こう。自分の意志で投票しよう。話はそれからだ。