「真面目な」学会員さんが嫌がらせ電話で逮捕です

大本営発表(聖教新聞)で、敵の日蓮正宗を攻撃しているからって、嫌がらせ電話をしてもいいっていう免罪符にはちっともならないわけで。
そういうことをした人が悪いのは当たり前だし、受け手である容疑者自身の思考の問題とはいえ、創価学会そのものが、あんな罵倒座談会や、「敵」を口汚く罵ったり「敵」の僧侶の人格攻撃をしていることも(例えそれがお互い様で泥仕合だったとしても)本当は許されることではないし、それが末端の学会員になにがしか影響を与えていないと言い切るには難しいだろう。
「向こう(日蓮正宗)だって、同じようなことはやっている」と、聖教新聞の罵倒座談会への指摘に対して答える学会員がいるが(我が家にも)。
「じゃあ、わざわざ同じレベルに、自分たちが下りて程度の低い言い争いをそれぞれの機関紙を使ってすることが、果たして信仰者として相応しいことなのか?取り合わない・放置するという大人の対応をしておけば、世間に『信仰者として如何なものか?』と印象を与えるのは、口汚く罵り続けた方ではないかと思うけれど」
と(我が家の学会員に)言ったことがある。
学会員の間においても「罵倒座談会」は評判が悪いと聞くから、そういう意見を既に思っている人や同意される人もいるだろう(我が家にもいた。でも「それはそうなんだけど、戦いとは?」って得意の妄信学会員モノマネをしていた。もちろんジョークである)。

毎度お馴染み、週刊新潮6/2号に記事が出ていたが、すでに最新号に変わっていて、書店で現物を確認できず(情報が遅いヘタレアンチの私w)。
ネットに記事のコピーが出ていたので、それをかいつまんで説明すると。

地区部長まで務める真面目な創価学会員が、「仏敵」日蓮正宗の仏見寺に、昨年6?7月の2ヶ月間で1123回の、本人曰く宗教論争という名の嫌がらせ電話をかけ偽計業務妨害の疑いで逮捕。
しかし実際は、2ヶ月間で1123回どころではなく、平成4年頃から。夕方から深夜にかけ電話に出た寺の関係者に罵倒していたというもの。しかも一軒の寺だけではなく全国の日蓮正宗のお寺に自ら名前を名乗って電話しており、検察から要請を受けた総本山の大石寺が調査した結果、全国523の末寺で回答があったのは353の寺。そのうち262の寺が谷口からの嫌がらせ電話を受けていたことがわかる。
容疑者を知る近所の方は「朝は聖教新聞の配達をし、その後はパチンコ店で勤務、朝夕にお題目をあげる普通の人」と話している。真面目な学会員という意味だろう。
記事では創価学会の広報室のコメントも掲載しており、「逮捕された谷口博司は地区部長をつとめていました。全く個人的な行為だったとはいえ、あってはならない違法行為であり、彼を役職から解任し、厳正に処分いたしました」(コメントは記事の原文まま転載)とのこと。

日蓮正宗の言うことは信用ならん!という妄信発言は一切無視する方向にして。でも、10年以上被害に遭っており、しかも容疑者直々に名乗っているにも関わらず、すぐに手を打たなかったのは何故?というツッコミは検察にするべきか日蓮正宗にするべきか。
すぐに手を打てない事情でもあったのだろうか。
しかも今の今まで総本山まで話が行っていなかったのも不思議な話で。
にしても。
嫌がらせ電話も、もしや氷山の一角に過ぎないのではないかと思ってみたりもする。
選挙だ折伏だと、人の迷惑顧みない学会員がいるくらいだから、選挙のないときの矛先が日蓮正宗への「批判」どころか実力行使の嫌がらせを行っているのではないかというのは、下衆の勘ぐりというやつで。
ども!下衆ですけど何か?

十代の頃だったが、自己中心的な性格で嫌われていたクラスメイトがいた。
他のクラスメイトは、表だって本人に何も言うことはなかったが、裏では悪口を言われていた。
ある日、その自己中心的ぶりが私に直接危害を及ぼしてきたことがあった。
で、ブチ切れた私は、その子を罵倒して、泣かせてしまった。
耐えかねていたこともあるが、クラスメイト達が裏で悪口を言っていたということで、その子を悪く言って良い思ってしまった。
当然、皆、私の味方をしてくれるだろうと。
が、その子が泣き出したために、私は悪者に。
裏で悪口を言っていたはずのクラスメイト達が、泣き出したその子の味方をしたのである。

容疑者的にはそんな感じだろうか。
新聞では日蓮正宗を攻撃している。仏敵だと悪だと言っている。
常軌を逸した電話は正義の戦い。
が、蓋を開ければ、悪者は自分。組織からも切り捨てられる。
日蓮正宗が、自己中心的な性格のクラスメイトとは言えないが、容疑者の心情はこのようなものかなと想像してみる。
気の毒だなとは欠片も思わないが。

実際、悪いことをしたから逮捕されるし、頼みの組織とて、そんな学会員は必要ないだろう。

が。
組織は本当に無関係だろうか。
聖教新聞が、容疑者の心理状態に影響を与えてはいないだろうか。
罵倒座談会での「批判」といいながらも「攻撃」している内容を真に受ける学会員は多くはないだろうが、少なくもないと思う。
仮想敵を作り、攻撃することで自分たちの正当性を確立する。
ともすれば自分を見失ってしまうような厳しい社会の中で、それはアイデンティティとなる。
創価学会から与えられた「正当性」を頼りに生きていく。
それは信仰とは別物の「正当性」ではないだろうか。それは信仰とはいえないと思うのだ。
それを頼りに生きていくのは自由だ。
どういう糧が与えられていても真っ当に社会生活が送れているのではれば。
だが、学会から与えられた糧である「正当性」はあまりにも極端である。

人によって幅はあるだろうが、その極端な正当性を受け入れる人々がいる。
散々既出の学会活動をしたくない長期バイトの2世さんでさえ「新潮や文春の書くことは全部デタラメ、学会は正しい」と固く信じている。
その正当性が、もっと弱い人の心に潜り込んだら?真面目で不器用な人の心に潜り込んだら?
未活の2世さんでさえああなのだ。
どうなるかは火を見るより明らかだろう。
自分たちの信仰が正しいと思っているなら、人を攻撃する必要はないはずである。
自信を持って信仰の道を行けばいい。ついでに押しつけないなら、誰も文句は言わないだろう。
やっぱり、学会そのものに人を惹きつける自信がないから、仮想敵を作り攻撃するのだろう。

アンチサイトまで訪れて「アンタは間違っている、目を覚まして正しい信仰をしろ」とメールや掲示板やコメント欄で説教をかます学会員と容疑者と、何が違うだろうか。
嫌がる人間にしつこく折伏をして、拒否されても魔だなんだとしつこく食いつく学会員と容疑者と、何が違うだろうか。
何も違わない。程度の問題なだけだ。
そういう人に限って、真面目「すぎる」学会員だったりする。
容疑者を切り捨てたところで、どうせ氷山の一角。
自分たちの正当性を主張し、違う価値観を持つ人間を攻撃している人はうじゃうじゃいる。
切り捨てるより、根本的なところが変わらなければ、こういうことは無くならないだろう。
逮捕されるような事から、友達を傷つけるような事まで。
見ず知らずのネットの他人を攻撃するような事から、学会員自身が追いつめられて心を壊すような事まで。
容疑者のしたことは犯罪だ。
しかし、容疑者の、日蓮正宗への攻撃心を育てたのは、創価学会だと思う。
「厳正に処分いたしました」とのコメント。
処分とはなんだろうか。何をしたのだろうか。
処分よりも、新聞紙面を見直した方が効率が良いと思うが。
自分たちが正しいから、価値観の異なる他者を攻撃する。
それは、まるで戦争や内戦の構図である。
容疑者は、その風潮に煽られた真面目で民族や国(組織)を愛する志願兵のようだ。
結局煽られて踊らされて、散ってしまった。
気の毒だなとはやっぱり欠片も思わないが。

さておき。
改めて思うが、凄まじい粘着質である。
が、日常化してしまえば案外やりこなせるかも。
起床→聖教新聞配達→題目→仕事→題目→地区部長の活動→宗教論争のつもりの嫌がらせ電話(深夜)→題目→就寝。
にしても。
その電話をかけまくる情熱を、ドラえもんや黒柳徹子が呼びかけている電話募金に向けて欲しかった。
その情熱で、何万人の子ども達が救えただろう。ああ惜しいことをした。