大学生の頃、進路について悩んでいた頃、年上の文通相手(当時はそういう付き合い方法がまだ残っていたのさ)に悩みを綴って送ったことがある。
頻繁にやりとりするほど親しい仲だったわけではないが、何かの折りに手紙を書き合っていた。
その方というのは、自分が目指そうかなと思っていたいくつかの仕事のひとつに関わる仕事を既にされている方で、具体的なアドバイスを求めてのことだった。
そして返ってきた返信は、ずいぶんと大きい封筒。
あけてみると。
太め(失礼)のご老人が微笑んでいる薄い雑誌が出てきた。
添えられている手紙の記憶は漠然としているが、1つ覚えているフレーズは「私はこれで道が開けたのであなたにも」。
ご老人や雑誌の放つ怪しさに躊躇しつつ、でもせっかく送ってくださったんだからと、読んでみた。
残念なことに、何も感じなかった。特に感銘も受けなかった。何も響いてこなかった。
まさに「私とは合わない」それだけのことだろう。
感じるとしたら居心地の悪さだろうか。具体的なアドバイスを求めての悩み相談したら、宗教団体の雑誌が返ってくるのである。
相手は「本当に親身になって」送ってくださったということが手紙からはヒシヒシと伝わってくる。
その気持ちも有難い。
でも、このモヤモヤとした青春(笑)の悩みが、この雑誌の言葉を糸口に解決するとは到底思えなかった。
逆に、私の悩みはこの雑誌一冊で解決するほど、簡単なのだろうかとムッとした。
例えば、子どもの頃からなんらかの宗教に関わってきた人にしてみれば、「解決の糸口に宗教」というのはアリなのだろう。
しかし、こちらはごく一般的な育ち方をした進路に悩む田舎の大学生なのである。
「悩んでいます」「ではこれを」で宗教団体の雑誌を渡された日には………………正直困るのである。
それでもって、相手に悪気があるようには思えず、むしろ好意だから………………正直困るのである。

そこが強引な勧誘や選挙活動で有名な団体だということは、田舎小娘な私も知っていた。
地元の集落でトラブルが起こったこともあったらしく、親が困っていたのも覚えている。
返事にも困り果て、無難に「ありがとうございます。参考にしてみます」というような言葉で返したような記憶がある。無論、参考にしていないのだが。
その件で私が学んだことは、「安易に人に相談するな」「自分の望む答えを相手に期待してはいけない」「人に頼らず自分で解決しろ」。
もちろん雑誌を読んで得たことではない。
そういった意味では良い経験になったと言えるかもしれない。
その後のやりとりで、特にその話題に触れられることもなかったし、その人との縁は途絶えることなく、賀状のやりとりが続いている。
しつこくされたら、それが続いていたかはわからない。
とはいえ、相手も私が困惑したことを感じ取られたのだと思う。
困りはしたが、私も相手のお気持ち「だけ」は受け取らせていただいた。

今にして思えば、あのご老人と雑誌から感じた怪しさは、本能が何かを察したのか、先見の明というやつか、予知か第六感か。

それから数年の後。

私は希望していたいくつかの職種のうちのひとつにつき、結婚もした。

モラトリアムの時代に「解決の糸口」にと文通相手が送ってくれた雑誌は、どういうわけだか毎月我が家にやってくる。
変わらず、かのご老人が微笑む「SGIグラフ」。
「私はこれで道が開けたのであなたにも」。
確かに道は開けた。関われば関わるほど、私はアンチの道を開いていく。
文通相手は悩める私に創価学会の存在を教えてくれたが、数年を経て、創価学会自体が私を悩ませている。
数年前、私を対応に困らせた創価学会は、未だに私を困らせている。

「私とは合わない」、そう感じた21歳の私の直感は正しかった。