土曜日、午後11時。
昼間は仕事、夜は活動家の学会員、会館より帰還。
とろとろと睡眠と覚醒の間を彷徨っていた私の目は、七三スーツの男を捕らえる。
七三はいただけない。
そもそも何の理由で七三なのだ、清潔感の象徴が七三なのか?その理由はなんだ?皆、七三なのか?七三が並んでいるのか?駐車場に並ぶ七三、会館前に並ぶ七三、激励品のパンを受け取る七三、七三七三七三、シュールだ、それはシュールな絵だ。
関係ない疑問を断ち切るように、どんが七三のままニヒルに言った。
「夜桜、見に行こうぜ!」
七三でもビバヒル口調(※1)である。
気分はクールでホットでセレブなヒルズのハイ!ガイズ!(でも七三)。
どことなく機嫌が良さげである。
時間も時間で、眠いのだが、今年の桜の咲き具合から見ても来週には散ってしまいそうな気配。
どんに今年の桜を愛でるチャンスが多く残されているとは思えない。
付き合ってやるか、と腰をあげた。

どういうわけか、どんには近場で済ますという発想はないらしい。
近くにも桜のスポットはいくらでもあるのに、どうしてもどんは毎年訪れていた他市の観光地の桜が見たいという。
桜といえば、そこ。
どんルールという頑ななこだわりは、悲劇を生む。
時間にして1時間後の出来事である。

車中。
「で、今日、仕事だったの?」
当然のように、どんが聞いてきた。
「は?仕事?いや、休みだったけど」
「え、休みだったの?!」
ものすごくびっくりしているどん。
横を見るな。前を見て運転しろ。
「……なんで?」
「朝からいなかったから、仕事なのかと…」
「…朝から病院に行くって言ってたじゃん、前から。で午前は病院で、どうせどんは仕事やら学会やらあるから、私一人で午後は買い物したりするって」
「そうだっけ?」
「………」
何も言うまい。いずれ私の脳もそうなる。
「だったらもったいないことしたなあ。俺、昼間、入るはずの仕事が延びて、時間空いてたんだよね」
惜しいことをしたなあ?、花見に行けたなあ?、どんは悔しがる。
ため息をつきながら、私は言った。
「いないって思ったら携帯に電話するなりメールするなりで確認すれば良かったのに」
「あ!そうだ!!」
どんは初めて気づいたかのように、大きく反応した。
「そうだ?そうすれば良かったんだ?」
更に本気で悔しがる。
………一番ベストな対応は、私が「どんはきっと私の土曜の予定を忘れているわね。今日仕事ないけど、そちらの仕事はどう?」と聞かねばならなかったような、だんだんそういう気がしてきた。
とはいえこちらとて、どんに仕事があり、続けざまに学会活動があると思っていたから、あえて連絡しなかったわけで、私が気を利かすのも何か違うような気も、同時にしてはいるが。
「俺さあ、友達にも言われるんだよね。メールとか電話で簡単に確認できるのに、それさえも怠るから、予定が合うのを知らずに会えなかったりするって。創価班の時はちゃんとやってるのに、スイッチ切れるのかなあ」
というか、ただたんに君はメールや携帯電話が嫌いなんだろう?
本当は持ちたくないし、いつまでもいつまでも古い機種を持ち続けるくらい。
それから夫よ…認めた方がいい。
抜けている。君はどこか抜けている。たまにあり得ないことを素でしでかすのを、私はその都度、衝撃を受けながら見てきた。
冷蔵庫を開けたら、勢いでワインのコルク栓が「大きな二枚羽根のワインオープナーを突き立てたまま」勢いよく飛び出してくるなんて、誰が予想すると思う?
今はそれが魅力であり可愛いところであるが、いずれ来るかもしれない倦怠期には、私の血圧をきっと上げる。

目的地が近づく。
私の脳裏は去年の記憶をよみがえらせていた。
去年も、夜、同じ場所に夜桜を見に行った。
結婚のケの字も、そのケの字の最初の一はらいでさえもなかった頃である。
ライトアップされる夜桜。薄紅色の花弁が風に舞う。
桜の木々の下には死体など埋まっておらず(多分)、並ぶはおでん…うどん…ビール…屋台…。
粋と俗が強引に混在する日本の情緒を、これまた粋に俗に楽しんだ去年の春。
同様、休日昼間はどんの学会活動で見に行けず、平日、仕事終わりに見に行った桜だ。
夜も11時を過ぎた頃、ライトアップの灯りも落ち、うどんとおでんに満たされたお腹を抱えて帰路に………。

11時?

言うべきか、言わざるべきか。
しかし距離はあと数キロ。これまでの小一時間の道のりが、ガソリン代が、無駄に終わることを言うべきか、言わざるべきか。
「どんよ……」
「何?」
時間は12時をまわっていた。
「桜は…見えないよ…」
一緒に知らないふりをして、悲しむべきだったのか、いや、でも、本当のことをうち明けるべきか。
私(鬼嫁)は後者を選んだ。
「去年、ライトアップが11時には消えた記憶が今、蘇った」
「え!」
横を見るな。前を見て運転しろ。
「マジで??」
悲しそう、とても悲しそうだ。
どっちが良かっただろうか、事前に知るのと、着いて知るのと。
車のフロントガラスに目的地が見えた。
月明かりさえない、闇に沈んだ桜並木(暗くて見えない)。
人気のない駐車場。
テキ屋の兄ちゃん達さえ、すでにいないのである。
がっかり。
という言葉を背中に背負い、どんはハンドルを切った。
あんまりがっかりしているので、「学会さえなければねえ」「メールで確認さえとればねえ」という意地悪な言葉は引っ込めておくことにした。

日曜日。
私は同僚と花見。
どんは学会活動。

移りゆく四季を、ほんのひとときでも
愛でることができないなんて、粋を楽しむことができないなんて、惜しいことを。
この年の、この桜の、この時間は一度きり。

果たして今年、どんは桜を見ることが出来るのだろうか。
桜は容赦なく散っていく。

(……今年も仕事が早く終わった日に時間を作るか…)


注釈
※1 「ビバヒル口調」…どんのマイブーム。アメリカのドラマ、ビバリーヒルズ青春白書の日本語吹き替えで主にディランのセリフに「?だぜ」という語尾が使われていることが発端。他に「あぶない刑事」の柴田恭平の「?ぜ」も物まね付きで多用。