サッカーがいろいろ気になるシーズンです。
W杯予選もさることながら、Jリーグのシーズンが終わるまで気になるわけです。
今年の地元のチームはどうだろうとか、誰か代表に呼ばれないかなとか。
万が一でも優勝したら、優勝景気で広告の仕事が増えるかなとか。

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先月だったか、今月初めだったか。
名誉会長がインフルエンザで同時中継欠席という事があった。
それを知ったのは、学会員のどんからではなく、インターネット。
そして、どんは、名誉会長が欠席したことを知らなかったのである。

さて、どんの学会員的名誉のために補足しておくと、二回(三回?二日か三日連続だったはず)あった同時中継のうち、一回はどんは着任しており、屋外にいた。…なので知らない、と、そういうわけなのだが。
残りの一回の同時中継では着任していなかったが、どんは出ていないのである。
……あれ?名誉が回復されていないぞ?
その日がいつだったか記憶が曖昧なので、どんが何をしていたのかさえ思い出せないが、仕事をしていたか、家で休んでいたか、そんなところだろうと思う。
じゃあ、周囲は教えてくれなかったのかというと、「中継に参加してるものだと、知ってるものだと思われていて、わざわざ誰も教えてくれない」とのこと。
それでもって、何も知らずに過ごしているところへ、アンチの妻から「名誉会長ってインフルエンザで中継欠席したって?」と報告されて驚愕するわけである。
これでも、どんはバリ(自称)活動家学会員。

学会における「活動家」のパターンなんて、おそらくは人それぞれだろう。
人材グループ活動がメインの人、役職で地区をまとめるのがメインの人、折伏や啓蒙がメインの人、仏法の勉強がメインの人。
さらに、人材グループ活動+折伏メイン、折伏+仏法勉強メイン等、組合せは多岐に広がっていく。選挙時にはほぼ全員に「+選挙」とつくのだろう。
私から見るとどんは「人材グループ活動+仏法勉強(+選挙)」といった所だろうか。
折伏セミナーの常駐や手伝いで話をすることはあっても、個人的に友人を折伏した、という話はここ数年は聞かない。
学会は「入決(折伏成功?)数は多ければ多いほど良い」と言うならば、どんは失格だろうが、どんにしてみれば「闇雲に折伏して数を増やせば良いというものではない」という考え方であるらしい。「相手にとって必要だと思ったら、勧めてみる」という折伏スタイルで、さらに「折伏した人を増やしても、増えれば増えるほどその人たちの面倒が見切れなくなる。そうすると置いてけぼりになる人が出てくる。そうなってはその人に申し訳ないから、自分が出来る範囲のことをする」と、そのようなことを言っていた。
とはいえ、今は創価班にかかりきりらしく、折伏どころではないようではあるが。
私が知る限り、どんが最後に折伏したのは数年前、しかも折伏した相手の「合わないから辞めたい」との申し出を受けて、退会させているケースだ。

もう少し、どんの創価スタンスに触れる。
名誉会長は「尊敬してるけど、神格化したくない」
失言は「オヤジギャグかなあ」(←にしては程度が低いだろ)
ゴーストライターの存在は「聞いたことがある」
罵倒座談会は「馬鹿だなあ」
財務は「年末は苦しいのであまり…」※ウチは夫婦それぞれに収入があるので、生活費と共同の貯金のみ折半で出しあい、それ以外はそれぞれの収入なので各自の管理。従ってどんの学会活動費はどんの自腹。
新潮や文春は「タイトルは派手だけど、記事は今更感が…」
信濃町は「興味ない。聖地化している人がいるけど、そういうのはどうかと思う」
妄信学会員は「学会の足を引っ張ってる」
会合は「着任以外は仕事優先。着任と仕事が重なって、スケジュールのやりくりが難しければ仕事が優先」
仏法は「哲学」
学会にいる理由「一人で仏法の勉強を続けていけば『自分教』になる」
新聞は「聖教新聞とSGIグラフと公明新聞。それ以外の雑誌は買ってない。新聞啓蒙はしてない」

短文では言い切れないが、強引にまとめるとこういう感じだろうか。
この問いを100人の学会員に問えば100通りの答えが戻るだろう。
活動に対する考え方はそれぞれ違うはずだ。
似たり寄ったりもあるだろうし、個人の考え方や生活スタイルの差も出るかもしれない。
妄信タイプの学会員から見れば「なんて不謹慎な!!不真面目な!!(斜めの「!」)」となるのかもしれないが、末端とはこんなものではないだろうか。
(それでも、いざ学会活動に出れば、周囲や非学会員に迷惑をかけるような強引なことをする人がいるわけだが。生活を優先しても、ひとたび活動に入れば一気に妄信スイッチが入る人もいれば、あんまり変わらない人もいるだろう)

学会が広宣流布とやらに躍起になっても、各種啓蒙を焚きつけても、活動を推進しても、末端の学会員には末端の、事情や優先するべきものがある。
学会あっての生活や仕事ではなく、生活や仕事あっての学会である。

幹部クラスから地区の末端へ、活動の丸投げ現象があるという。
上から下へ下へと、会合やら人材グループの雑務やらなんやら、丸投げで降りてくる。
思うに、末端に限らず幹部クラスから末端に至るまで、学会活動より優先したいものがあるから下へ放り投げているのではないだろうか(サボりたい人や、やらせることが信心だと思っている人や、無責任な人もいるのだと思うが)。
とはいえ、誰かがやらねばならぬというものらしく、結局、誰かが担当したり、生活より学会が大事な人が張り切ったりするのだろうが。
そんな負担になるもん、やらせんなよ。
学会は「学会員は社会で前向きに働いて輝く姿を見せてこそどーのこーの」的なことを新聞で言っておきながら、仕事や生活を浸食するほどの数多い会合スケジュールを組み、啓蒙を推進しているあたり、学会員が仕事や生活を優先させて学会活動を眠ってしまうのを防ぐ魂胆がモヤモヤと見えてくる。
犠牲を犠牲だと思わせないように工夫しながら。
学会員個々の生活より、学会組織のほうが大事なのではないだろか。
とはいえ働かなきゃ、財務は払えないんじゃございませんこと?
お金も欲しい、学会員増やして欲しい、無償労働もして欲しい、でも学会員は常識がないと言われるのは困るから常識的な体面は保って欲しい、学会関係の新聞や雑誌はダブってでも買って欲しい、未活動を起こして欲しい。
あれもこれも、もっともっと、と組織の強化のための要求だけは凄まじい。

中には生活犠牲にしても学会活動大事!(というか犠牲だと気づいていない)と要求に次々と応えようとする妄信学会員様もいらっしゃるだろうけれど。

創価スタンスに話は戻る。
学会がどんなに煽っても、結局のところ学会は一枚岩にはならないし、学会員全員が学会のために必死で活動するわけではない。
職員でもないかぎり、学会が学会員の生活を面倒見てくれるわけではない。正直なところ大事なのはそれぞれの生活がまず大事なはずである。
無理をして学会活動をすることに、何か意味があるのだろうか。
それは無理ではなく、努力だと言うかもしれないが、基盤となる生活を後回しすることは無意味な努力ではないかと思う。
個々の生活基盤を無視して活動に力を費やすからこそ、そういう学会や学会員の姿が世間には奇異に映るような気がする。
それぞれの創価スタンスがあっていいはずである。
学会や妄信学会員がいちいち「学会員はこうあるべき」「こういう姿が真の学会員」と指し示す必要も押しつける必要もないような気がする。
「迫害されても、アタシ達、この信仰を貫くワ!」と学会員の皆様が健気にも(嫌味)おっしゃっているわけだから、そういう方々に次々要求を突きつけるのではなく、もうちょっと考慮のしようも配慮のしようもあるんでないかと思うのだが(うちのどんにも配慮よろしく)。
やっぱり、学会員の皆さまよりも、組織の強化が大事なのだろうか。



追記:誤解を招く不適切な表現があったので、訂正しております。詳細はコメント欄にてご確認ください。
様々な立場の方が読まれるため、表現には気を付けているのですが見落とした箇所がありました。
今後はより一層の注意を払います。申し訳ありませんでした。