同僚に、とある宗派の寺の仕事がきた。
総本山は世界遺産に登録された宗派である。
予算は。
「安いね」
私の問いに同僚は答えた。
「払えないんだって。簡単なデザインで、一色刷りで、挨拶状だね、これ。……それでも安いんだけどね、この金額」
資料として渡されていたのは、いかにも古い仏閣の写真の掲載されたパンフ。
その寺は隣の市にある。知る人ぞ、知るといわれるような穴場観光地である。
山の頂上付近に建っているので眺めが良いのだ。
「これねえ、去年の夏の台風で本堂がいろいろ壊れちゃってね、未だに修繕できてないんだって。お金がなくて」
「檀家さんが少ないの?」
「少ないんじゃなくて、いないんだって。信徒さんのみ。それにこの不景気だし」
「仏閣の修繕って高くつくんだろうね。建築技法も特殊なんだろうし」

その寺は、県の重要文化財である。とはいえ、「台風被害を受けたから助けて!」と申請を出したところですぐに対応してもらえるわけではないという(数ヶ月も放置されているのだから、未だ補助金は出ていないのだろう)。実は寺のある市のさらに隣の市にある、その寺よりも有名な重要文化財の建物も台風被害にあっているのだが、最近やっと補助金がおりて修繕の工事が始まったらしい。
いつ補助金がおりるかわからない。かといって、いつまでも破壊された本堂を放置するわけにはいかない。本尊の一般公開も中止中、毎年開催しているお祭りも、行うことができるかわからない、そういう切羽詰まった状況なんだそうで。
そういうわけで寄付のお願い。お金をかけずに、安い予算で「お願い」をたくさん印刷して、信徒さんに配って、人目のつくところに置いて、地道な広報をするのだろう。
「広報の効果」は分かっているのだけど、「広報にかけるお金はない」それで、苦肉の策が、なるだけ安く、それでも広報を打ちたい。泣かせる話じゃないか。
文化財とはいえ、観光客誘致が出来るようなパンチにきいた名所でもなければ(桜並木があるとか、あじさいとか紅葉とか有名観光地の近くとか)、市自体に知名度もなく、人口も少ない。
たとえ、奈良時代に建てられようが、戦国大名が再建費用を出そうが、本尊を弘法大師が開眼しようが、何代か前の住職が即身仏になろうが(!)、仏閣マニアや信心深い方々にとっては心を鷲づかみにされるようなラインナップではあるが、一般向けに考えると「寺」という存在だけでは悲しいかなパンチが弱い。そもそも市に訪れる観光客の絶対数が少ないのだ。
とはいえ歴史と由緒のある寺である。熱心な信徒さんは足繁く足を運び、お祭りもあり、それでも年に数万人の参拝客が訪れるそうなのだが、賽銭の額にしろお布施にしろ、そう多いわけではないだろう。
しかも、檀家がないのである。
どこぞの団体みたいに「財務は一口1万円から」などと提示しているわけではない。
財政難は目に見えるようだ。

「必死さが伝わってくるね」
「お金、本当にないんだろうね」
そういえばさっき、その仕事の打ち合わせをしていたミーティングブースから「ボランティアというか、これも一種の寄付というか、仏さんに対する心遣いというか、人助けというか、まー、そういうつもりで」という営業の声が聞こえていた。
不景気のしわ寄せは広告費と人件費。
広告業界はその煽りをもろに食らい、生き残るために価格破壊が発生し、それもまた業界の首をしめ、そんな苦しい状況の中で仕事を回していくのは大変なわけだが。
「これは仕方ないねえ」
「人情ね、人情」
その寺の金がない、という状況に、自分たちの身を振り返り、共感を持ってしまったデザイナー同士の話はさておき。

話は変わって、別の宗派。創価学会っていう団体の話なんですけれども。
良い値段で仕事が発注されるという。相場よりも高い値段。
同僚のライター仲間が学会雑誌の仕事を受けたことがあるらしい。
学会の仕事は正直したくないんだけれども、良いお値段なので引き受けてしまう。
そういうことで。おそらくデザイン代も広告掲載代も、良いお値段。
それだけでなく、聖教新聞は独自に印刷所を持っておらず(確か)、各新聞社の印刷所に印刷を発注するわけだが支払う金額は相場より高いため、印刷受注を請け負うこと潤う代わりに本社の新聞社は学会に対して滅多な記事を書けないのではないかと察するわけだが。(「法華輪転機」とかって揶揄する言葉があるくらい)そんな腑抜けなマスコミ様の仕切る日本。
人材グループには基本的にノーマネーなところを見ると、内部の人間は出来るだけ安く、出来ればタダで使うというのが学会のモットーらしい。飴をばらまくのはメリットのある外部だけと、そういうことで。
なんにしてもお金があるところは、違いますね。
なんにしてもお金にものを言わせてますからね。
かたや破壊された本堂の修繕費も捻出できず数ヶ月間も放置して、寄付のお願いの一色刷広告費さえ相場よりも安い金額しかだせない寺と、かたや会館やら施設やらドカンドカン建てて、広告費どーん!印刷費どーん!大盤振る舞いな団体と。
セチガライ世の中なんである。
台風被害は邪宗への仏罰だなどとほざきになる方々はさておき。お金というものは本当に必要なところには回らないようにできているらしい。例え重要文化財でも。
この場合、県の不手際もあるのだろうが、財政難と言われてしまえば、それまでで。

だいたい、ごくごく普通の宗派の寺は大々的に折伏(迷惑)キャンペーンを打って信者や檀家を増やそうとはしない(江戸時代に布教を禁止されてそのまま?)。どこぞと違って。
受け身な体制なわけで。どこぞと違って。
檀家が多い都会の寺はわりかしゴージャスだけれども、人口の少ない地域に建つ寺は檀家も少ないだろうし。その寺にいたっては檀家がないというし。どこぞと違って。
ビルみたいなお寺建ててベンツに乗るお坊さんもいれば、懐が潤って仕方がなさげな名誉会長もいれば、寺の修繕に四苦八苦するお坊さんもいる。同じ仏教、悲喜こもごもである。

でも。
地味だし、パンチがなくても。
由緒も歴史もあり、文化としても貴重な本尊があり、即身仏になるほど仏の道を究めた住職がいて、遙か昔の時代を象徴する様式美・建築美を今に伝え、自然溢れる山々の中に佇む古刹を修繕して次の世代へ「文化的財産」「仏教の精神的財産」として残すことの方が、意義のあることなのでは、と私は思う。
そこにかけるお金は、どこぞのお金持ち団体が集める財務より遙かに、生かされる
「お金」ではないかと思うのだ。

そんなわけで、どんを伴っての春の行楽は、その寺にしようと勝手に決定。
お賽銭も、ちょっと弾もう。


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おまけ
あったら嫌だ、こんな学会雑誌。
「ファッション雑誌」
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……なんか、嫌だ。