私が高校3年間をマーチングに費やしたということを、いつぞやのブログで書いた。
以来、楽器を置いてお揃いのコスチュームを脱いでも、マーチングファンだ。
我が高校はヘナチョコであったが、レベルが高いことで有名な学校や団体はいくつかあり、その中のひとつが創価学会である。
今年の全日本マーチング・バトントワリング連盟主催の全国大会で、創価ルネサンスバンガードがグランプリを取り、8年連続グランプリの記録をうち立てた。おめでとうございます。
学会アンチだが、そういうの抜きで、一マーチングファンといて素晴らしいと思う。
同時に残念なお話も聞こえてきた。
聖教新聞にはおそらく書いていないであろう観客のマナーである。
もちろん、他の観客の方にも言えることだし、マナーの低下は毎年指摘されていることだが。

応援された学会員の方。
創価学会の強さだけを喜ぶのではなく、全ての出場団体の演技を楽しむことはできませんか?
どの団体も、練習し、難関を勝ち抜き、全てをかけて本番一度きりの渾身の演技をするのです。
その演技の最中に、おしゃべり・飲食・他の宗教団体のバンド登場に野次。
創価学会の演技の時だけ盛り上がり、3色旗を振り回し、グランプリ発表では「8V」の横断幕を持って通路を走り回ったって本当ですか?
音楽が好きですか?それとも創価学会の「勝利」の瞬間に立ち会いたい・誇示したいだけですか?
その行為が、8年連続グランプリという偉業に水を差していることに気づきませんか?

…という話をどんにしたら。
「民音主催のバンドのコンサートに行ったら、観客に3色旗を振り回している人がいたよ。観客は学会員だけじゃないのに。あまりの空気の読めなさにボーカルが呆れたらしくって『今日は皆さんありがとうございます。中には予想通りな方もいらっしゃいますが』って嫌味言ってたなあ。ああいう人たちはね、誇示したいっていうより『同じ学会だから来てやってる。応援してやってる』って無意識に思ってるんだと思う。講師呼んで会館でやる講演会とかもそう。いるよ、マナー悪い人」
「注意とかしないの?」
「注意したら…、たとえば聖教新聞で今回のマーチングの件を注意したとしたら、逆にクレームが来るかもね。『せっかく応援しに行ったのに!』って。だいたいどの部のどの年齢層か予想はつくけど。嫌だねえ」
主役が誰か、間違えてるよね

…………マナーが守れない・音を楽しめないなら、学会関係だからって何でも行かないほうがいいですよ。
観る方も演る方も、迷惑です。

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つらつらとネットサーフィンをしていた。
そうしたら、折伏命!名誉会長全面万歳な方の日記に行き当たった。
その方が会合で幹部から聞いた話として、スマトラ沖地震の津波から運良く逃れた学会員家族の体験談を紹介していた。
海岸に近いホテルが取れず海から離れたホテルに宿泊したことで難を逃れ、脱出のために家族が乗った船以降の後発の船は沈んだという。
その間の心痛や不安はお察しする。生きて日本に帰ってこられて、良かったと思う。
しかし、問題はその家族ではなく。
万歳な方は「守られた」と記し、「感動した」と。
「守られた」と言ったのは、万歳な方ではなく、会合でその話を紹介した幹部の方であろうが。
では、守られたって、何に?感動したって、何に?
私は泣きそうになった。怒りに震えた。
万歳な方の日記の日々の内容も、あまりに「それはやりすぎでは?」というような事をさも素晴らしい事をしたかのように書いており、どんの言うところの「周囲が見えていない、学会の評判を落とす学会員」タイプの方だろう。
相手にするようなことではないのかもしれない。
だがどうしても、そこだけは見過ごせない。
多くの国の人が亡くなった。
多くの国の遺族が悲しんでいる。
たとえ生き伸びても、多くの方が精神的に経済的に苦しんでいる。
亡くなった方は「守られていなかった」とでも言うのだろうか。
創価学会様の信仰が守ったと?信心していたから助かったと?
後発の船が沈んだのは、信心していないからとでも?
多くの人が亡くなったのは学会員じゃないからだと言っていることに等しいと気づかないのだろうか。
そんなつもりで言ったわけでも書いたわけでもないのかもしれない。でも結果的にそういう意味に聞こえるし、あまりに言葉が足りない。
どっちにしても、無神経にもほどがある。一体、どこが感動できる話なのだろうか。
学会員さえよければ、それでいいのか?学会員が助かったから、それでいいのか?
亡くなった方の冥福を祈ることさえできないのか?

人間を遙かに凌駕する自然という存在が引き起こす災害。
それは万人に等しく降りかかる。容赦はない。そこに意志はない。
人間が作りだした信仰が、自然に敵うはずもない。信仰など、関係ない。
キリストもイスラムも仏教もヒンズーも創価学会も。
自然の前に人間は無力だ。
生き延びることも、亡くなることも、紙一重の偶然。
咄嗟の判断が明暗を分けたということもあるだろう。
それを運命というのか、運というのか、どう呼ぶのかは私は知らない。
「偶然」が重なりその家族は無事だった。
それは喜ぶべきことだ。素晴らしいことだ。
だがそれを外野が強引に、都合良く信仰に結びつける、その行為。
選ばれた人間かのように、喜ぶ、その行為。

こういう人がいる。
だから私は、創価学会が嫌いだ。
一人を見て全てを決めつけるというのは乱暴なことも自覚している。
だが、これは個人の問題ではない。
創価学会にはそういう考え方を持つ人間を育てる土壌がある。
だから私は、創価学会が嫌いだ。

信心して守られた、というのなら。
どうやら、災害に見舞われた時、生き残るのは創価学会員様だけらしい。
信心すれば、生き延びるらしい。
ならば、私は死を選ぶ。
いやむしろ、信心などしなくても、生き延びてやる。

ああ、でも。
「夫が創価学会員だから、夫の信心がアンチ妻の命を救った」とか言われるかな。