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私は年に一度、遺書を書く。
別に、死のうとしているわけではない。
とりあえず、突然死んだときのための身辺の整理の指示とか、友達への連絡とか、よろしく伝えてほしい人とか、なけなしの財産の行方とか、結婚してからは学会式に葬式したら化けてでるなど、後始末的なことを書く。
数年前、友人を病気で亡くし、以後私の死生観はガラリと変わった。
死ぬということが身近になった。若いとはいえ、明日何が起こるかわからない。
そんなわけで、私は遺書を書き、年に一度、更新する。

その遺書をどこに仕舞っておいたから、という話の続きで、どんと葬式の話になった。
「俺はね、友人葬でやってほしい」
「学会式の?」
「いや、まあ別にそうじゃなくてもいいや、宗教色が無くてもいいよ。どっちでもいい。あるでしょ、葬祭会館とかでそういうプランが」
「うむ」
「とにかく、坊さんとか聖職者を介さなければそれでいいや」
「それ、あんたが企画しといたら?自分で葬式プロデュース」
「あ、それいいね」
「私はね、じいさんの葬式が心に残っているのね」
「うん」
「原風景というかね、浄土真宗の葬式と、地元の古いしきたりとか伝統文化がミックスした感じで。荘厳な儀式の中に非日常なお祭りの空気もあって。印象に残ってるのよ。じいちゃんが大往生だったっていうこともあるんだけど」
「あー、わかるわかる」
「だからね、そのね、原風景の中に還りたいというのがあるのさ」
「うんうん。ノスタルジィだね」(※何故かどんは「ノスタルジィ」という言葉が好き)
「だからじいさんみたいな葬式がいいな。実家であんなふうにやってほしい」
「わかったよ……で、華ちゃん、あのね」
「何?」
「浄土真宗でも、お金を出せば法華経で葬式してくれるみたいよ」
「……お前と言う奴は!!」

私の葬式なのに何気に自分の希望を言ってんじゃないよ、まったく。
うかうか死ぬこともできやしない。

ちなみに葬式に関しても、創価学会はこれまた、強烈なインパクトを与えるエピソードが絶えない。
香典は喪主に渡らず幹部が財務で持っていくとか、会葬お礼に「学会に寄付しました」と書いてあるから名目上は寄付なんだとか、友人に見送られるのが一番…とか言いつつ本当はお寺を破門されて坊さんを呼べなくなったから友人葬を始めたとか、おばちゃん学会員たちが嵐のようにやってきて死に顔や骨の焼け具合を見て故人の信心度の勝手に評価していくとか、学会員は死後硬直しない(※宗教とは無関係に、人間は死後6?8時間で死後硬直状態になり、死後30時間から筋肉が軟化していく硬直解除という現象が起きる。ちょうど葬式の時間帯に重なるため、この状態を「死後硬直しない」と勘違いしているのではと思われる)とか、正しい信仰をしたら遺体は白くなるとか(…遺体ってそもそも白いんじゃ?信心深い人が亡くなって病気の影響で肌の色が黒ずんでいたら一体?)、親しくもないのに仕切りたがる人々が現れ葬式を仕切ってしまい遙か彼方に遺族が置いてけぼりになるとか、葬式が学会の宣伝になるとか、弔辞で故人の学会活動の紹介をしすぎて非学会の弔問客には何のことだかわからないとか、弔辞で日蓮正宗の批判をするとか。

もちろん真偽のほどは私にはわからない。
間違って伝わったこともあるだろうし、事実かもしれない。とりあえず創価学会公式発表ではなく、学会員同士でまことしやかに囁かれる通説らしい。
香典だとか弔辞だとか運営にまつわることはさておくとして、学会員は死後硬直しないとか、正しい信仰をしたら色が白くなるとか。人間、皆同じ種の動物なんだから、特定の宗教に限って遺体の現象が異なるなんて、あるはずがない。差異が起こるなら病気や死因、気温湿度等の環境だろうて。
ともあれ、創価学会員の夫を持つ身としては頼むからただの噂であってくれと心底お願いしたくなるような話ばかりである。

ちなみに原則、創価学会の葬式では香典はないらしいのだが、現代の習慣にそぐわないということで、香典が慣例化しているそうで。
それを寄付や財務として学会に納めなければいけないかはさだかではない。
そういう体験談を持っている人もいれば、そんなことはなかったという人もいる。もしやこれは、葬式に関わった地区の学会員の考えによりけりなのだろうかと思ってみたりする。それは香典のエピソードのみに限ったことではないだろう。
関わる学会員さんの当たりはずれがあるとは、まるでクジのようだ。
しかし、相変わらず強烈なのは「創価学会の戦力」パワフルおばちゃん婦人部学会員のエピソードである。
集団で来られたらきっと叶わない。
葬式に限らず、この集団は戦慄を覚えるような強烈な噂が絶えない。
噂だけでなく、私が垣間見たことも含めて。
創価学会員の夫を持つ身としては頼むからただの噂であってくれと心底お願いしたくなるような話ばかりである。
でも、垣間見ちゃったし。
(ただ、宗教に限らず、この年代の女性の行動は強烈かもしれない、と痛感する場面に日常のあちこちで、ついでに実家でも遭遇する。いつか私も…?いやいやいやいや)

とりあえず、どんが過去関わった葬儀では、そういった場面は見ていないということなので、やはり、関わった地区の学会員個人の考えや行為によるところもあるだろう。
これを創価用語「非常識なのは一部の人」という。(そこをなんとかしてくれ…)
もちろんどんが気づかないとか、麻痺しててそういうもんだと思っているという可能性もあるが。
何にしても、死に顔や骨の焼け具合など不確かで裏付けのないものを見て故人の信心度の勝手に評価していくのは、故人も遺族も、たまったもんではないだろう。葬儀を仕切られるのも、宣伝も日蓮正宗トークも、勘弁である。
創価学会員の夫を持つ身としては頼むからただの噂であってくれと心底お願いしたくなる。

「まあ、生き様が顔に出ることはあると思うけど…。信仰心はね、関係ない人がジャッジすることじゃないよね。されたくないもんね」
とはどんの弁。
しかし創価学会員らしくどんは続ける。
「そういうおばちゃんたちもさ、悪気はないんだよ。普段はね、地域のためにがんばるような…案外いい人だったりするから」
創価スイッチが入りかけたので、私はどんの創価燃料補給プラグを抜く。
「普段いい人だからって、亡くなった方を骨だ死に顔だ実証のない根拠で判断できる権利はないでしょ。悪気がなかったら何言っても許されるのか?あ?」
「……そうだね」
「いい人っていうのはね、葬式の場でそういう事は言わない人だよね」
「……そうだね」
創価スイッチはオフ。庇いきれずにあっさりオフになったということは、どんも何かしらおばちゃん学会員の強烈エピソードに遭遇した経験でもあるのだろうか。

なんだかまとまらなくなってきた(笑)。
とりあえず、こんな強烈なエピソードが飛び交う宗教と、相対していかなければならないのだ。どんを見送る時まで。または、私が見送られる時まで。
どんのお世話になっている方々ならともかく、噂で聞くような関係の薄い学会員に好きにさせるわけには行かないし、学会員の妻だからという理由で学会式にされたりしたらおちおち死んでもいられない。(どんはそんなことしないと思うが、落ち込んでいる時のどんは周囲に押し切られやすい)
そんな意味も込めて恒例の遺書書きをし、どんとそれぞれの希望の葬式方法の話をし。
なんにしても、創価学会員の夫を持つ身としては事実であってくれるなと、頼むからただの噂であってくれと心底お願いするばかりである。

早死にするのは別として、私とどんが年を取ったとき、創価学会が存在するかは、さだかではないが。


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この頃、いや、もうずっと。
朝、テレビをつければ大抵、女か子どもが殺されたとキャスターは告げる。
時に金品を奪われ、時に犯され、時に川に捨てられ、時にスーツケースの中に押し込められ、
時に山に公園に道ばたに放置され、捨てられる。
死に近いのは、女で、子どもで、その死はあまりにも不条理だ。
重いはずの生も死も、もうずっと、軽い。
あまりに軽々しい死と隣り合わせで、私たちは生きている。