先日、どんは会館の着任でありました!

土曜日に、何かの罪滅ぼしのように隣県にドライブに連れて行ってくれたが(笑)、着任のあった日曜日は独りで家にぽつん。ま、ゆっくりしてたけど。
9時過ぎにどんは帰宅。なにやら落ち込んでいる様子。
「任務に自信がなくなった。俺、向いてないかも」
自分の手際の悪さに自己嫌悪しているらしい。
取りあえず励ましてみる私。パートナーとしては合格、アンチとしては失格(笑)
あまりグズグズするので、ちょっとキレて、辞めちゃえよ!と言い放つ私。
アンチとしては合格、パートナーとしては失格(笑)。
まあ、まさに彼自身の問題であるから、題目とやらでもなんでもあげて自力で立ち直って頂戴よ。
…パートナーとして大失格(笑)。
彼の信心である。辞めるも、続けて精進するも、私の知ったことでは…私の口出しできる範疇ではない。
「辞めるなんて無責任なことは出来ないよ」
ほらほら、あっさり答えは出るわけだし。

とはいえ心配は、責任とどん自身の本心との間に、どんが板挟みになること。
学会は負担を努力で克服し任務を全うすることが信心だとか言うのかもしれないけれど、克服できないことがイコール信心が足りない、というふうに自分を追いつめてしまうことがあるのではないか。
生活や体と心の健康を犠牲にした信仰は、信仰とはいえないのではないか。
団体運営のための学会か、学会のための団体運営か。個はどこまで犠牲になるべきか。
学会のための個なのか、個のための学会なのか。
団体運営活動が強制ではなくても、前向きすぎる言葉でせざるを得ない雰囲気に持っていくのは強制ではないか。
いろいろ疑問は尽きない。

さておき。ウチのどんの話。
周囲が人望が厚い(らしい)どんを頼っているのか、周囲が別に良いよと言うのにどんが自主的に責任を全うしているのか。
端から見るとその半々だろうか。
例えば。
ただでさえ通常の学会活動と仕事で忙しいのに、さらに「●●部長になってくれ」というお願いをされたことがあった(過去に受けたことがあるらしいが、超多忙を極めて懲りたらしく今回はさすがに断っていた)。
またその逆のケースで、着任出来なくなった人がいて、着任の代行を人に振らずに(または断られて)自分から着任についたこともあった(そのために私との予定がキャンセルになった)。
など。実際に両方の出来事は起こっているわけだし。
そんな中で、100%体調を優先すると言う一方、「責任感」も強いどんはきちんと線引きできているのだろうか。
本音をいえば、パートナーであっても私にはそれは判らない。
「無理はするな」「体調優先だから大丈夫」という会話を繰り返してきた。
とはいえ、体調や私との予定よりも学会を優先させたことは何度かあるわけで(その逆もあるけれど)、そうなってくると、どんの体調に加えて先々の生活に対して不安が残る。
私が妊娠したとき、子どもを産むとき、子どもが産まれた後、子どもの行事と学会行事がバッティングしたとき。
それは私だけでなく、学会員のパートナーを持つ人が、常に不安に思っていることのひとつではないだろうか。
どんは「子ども優先」と言い切る。「さすがに考えているよ」と。
私はどんを信じている。でも、実際に直面した時、どんの「責任感」はどう対応するか、自信がもてない。
責任感があることは素晴らしいことだと思う。でもその「責任感」がどんの「創価学会仕様」になっている部分ではないかという気がしないわけでもない。

マジメに書いちゃった(エヘ)